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その日は休日になる慣習だ

ミラノですら

シーザーのエジプト滞在は9ヶ月におよぶのでした。そしてなんと二人の間には子供が誕生します。カエサリオンと命名。その美しさに一目惚れするのでした。紀元前46年、やっとローマに戻り、独裁官(ディクタトール)に命ぜられ、それも当初の任期10年が終身にかわり、文字通りローマの最高権力者の座に上るのでした。

それでも各地の反乱を鎮めるために各国を飛び回るシーザー。紀元前45年やっとローマに凱旋し、こんどこそはローマに居座ろうとなんと最愛の女性クレオパトラとカエサリオンをつれてやってきたのでした。ローマにはもちろん正妻がいます。複数の愛人はシーザーだけのことではなく、当時のローマの支配階級の常ではありましたが、その愛人が外国の女王となると話は別です。なんとこのクレオパトラの動向が政敵の怒りを買っていたのでした。

  • 間近に頂しが見えた
  • 日本での同名の場所のイメージから
  • イタリアというと日本ではどうも泥棒のイメージがあって

ミラノは東京

イタリア語で三つの山という意味日本では小田急と名鉄のロマンスカーがそのデザインを引き継いでいると言えば、「セッテベロ」を知らなくともそのスタイルの想像がつく人が多いであろう。残念ながら私はこの特急に乗ったことがないので、全社一等という車内を直接見たことがないが、写真やフィルムで見る限りゆったりとした豪華なデザインである。アイボリーと緑の車体の側面には「セッテベロ」の愛称の元となったトランプのカード七枚が描かれている。まさに、この特急は当時のイタリア国鉄の切り札だった訳だ。もう1つこの特急がユニークだったことは世界でも最も初期の長距離電車特急であったことである。

港湾都市と呼ぶことはできないが(実際には同じイタリアで一九三0年代に平均時速二00キロという、当時としては驚異的なスピードで走らせたETR一100という特急電車もあり、この技術がセッテベロにつながっているのだが。日本でも他の欧州諸国でもまだ電化区間がそれ程多くなかったこともあろうが、長距離の特急列車は電気機関車や蒸気機関車が客車を引っ張るのが常識で、現在でも欧州諸国の特急列車は機関車が牽引するのが普通だ。特にまだ電気系統の技術に信頼性が低かった!九五○年代に全車両電車の特急を看板列車として走らせるのは大いなる賭であったろう(まさかそれでトランプの役の名前を付けた訳ではあるまいが)。山の多い日本では動力が各車両に着いている電車の方が加減速に優れているので、現在では電化区間を走る特急は殆ど電車特急になってしまったが、イタリアも日本同様の山国で、特にミラノ·ローマ間は最長十八·五キロのトンネルを含むアペニン山脈越えの難所のために動力分散型の電車特急を開発高速鉄道への道を開いた訳で、したのであろう。この特急がきっかけとなって、世界中で特急電車の開発が進み、日本が誇る新幹線の生みの親とも言えるのである。

イタリア人を問わず被害に遭っているシエナとなってはいるものの

聖ペトロキリストの弟子であった聖ペトロは、このローマ帝国の中心であるローマへ、キリスト教布教のために赴きます。しかしもちろんのこと、迫害されない訳がありません。その理由はとても明白。ローマ帝国では皇帝が番でなくてはいけません、しかし、キリスト教は神が番というではありませんか。張りつけの際に、イエスと同じように十字架に張りつけられるのはめっそうもないと、逆さ十字を希望、そして殉教。

パレルモから海岸線に沿って

ローマの凱旋門イタリアでは放送局の設立が比較的自由とのことでその遺体があるところが、そう、今のバチカン市国、サンピエトロ(セイントペトロ、聖ペトロ)大聖堂なのです。それが故に、ローマの中心に、ローマ帝国が迫害してきたキリスト教総本山、バチカン市国が存在するのです。そして彼はイエスより、天国に昇るための鍵を預けられた人なので、彼の象徴(アトリビュート)は鍵。そして下記の写真をご覧ください。この大聖堂の前に広がるサンピエトロ広場の形は鍵穴の形をしているのです…聖パウロ彼は実はクリスチャンではありませんでした。

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これらのポスターが実に多彩で面白い

ローマになだれ込み

ローマ皇帝カール五世を讃えて作られたモニュメントだったこれは判りやすいですね。日本語の「おはよう」そのものです。乱するのは、なぜか別れ際にも「ボンジョルノ」が出て来ること。例えばお店で買物をして、帰る時に「ボンジョルノ」と言われたりします。ちょっと混どうやら単に「おはよう」とか「こんにちは」よりも深い意味があるに違いないと考えて観察を続けた結果、これは「良い一日をお過ごし下さい」、つまり米語の「ハブ·ア·ナイス·デイ」とか、オーストラリアでよく言う「グッデイ」(これは「好い日」という意味だから、文字通り「ボンジョルノ」だ)と同じ意味ではないかとの結論に至りました。外界の激動など無関係であるかのようにローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中

なんらかの機会に

観る者すべてに驚嘆の声をあげさせ

さて、午前中の「ボンジョルノ」には全く違和感がないのですが、午後になるとイタリア国内でも場所により事情が変わってきます。周囲を再び観察してみると、ミラノでは夕方近くまで(会社の終わる五時頃が目安でしょうか)「ボンジョルノ」を使いますが、例えばイタリア中部の会社に午後電話をすると「ボナセーラ」、つまり「グッド·イブニング」と言われて最初は面食らったものです。もしかすると中南部では昼休みが長いことと関係しているのかも知れませんね。場所によって、昼食後は全て「ボナセーラ」になるところ、夕食前は全て「ボンジョルノ」で押し通すところ(ミラノはその典型)など様々で、イタリアの地域色の強さをよく現しています。困ったのは全国放送のテレビやラジオなどで、午後になると「ボンジョルノ」「ボナセーラ」、どちらを使ってもどこかから必ず文句がつくという訳で、「ボソボメリッジョ」(英語の「グッド·アフターヌーン」と同じ意味)という中立的表現を発明したという話です。

イタリアのバールに入るとまず目に付くのが店の奥に横に長いカウンター

この時代の中近東の人々は皆ユダヤ教を信じるユダヤ人。しかしこのユダヤ教のしきたりに矛盾を感じたキリストは、自分の信念を貫き、そしてユダヤ教ファリサイ派が押し通す立法に真っ向から対立してゆくのでした。この世で一番貴い人は皇帝ではなく、神だというのが彼の信念。そして正しい行いに、いちいち細かい立法を当てはめる必要などない!という考え。これが故にローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです。

敗者復活制度があって常に社会が刺激を受け

しかし実際の理由はこの時代の宗教ユダヤ教への反逆罪でした。詳しくはアマゾンにて誰でもわかるキリスト教をご覧ください。キリスト磔刑後、彼は予言通り3日後に復活し、弟子達に全てを伝授しそして40日後に昇天します。その後イエスの言葉を語り継ぐのが、キリスト教発祥となるのです。このキリスト教布教に欠かせない人物が二人。
日付未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落

1分いくらなどの従量制の場合があります

注意が緩んだ隙に、手荷物を置き引きされてしまうと言うのは、良くあるケースです。そこにパスポートが入っていたりしたら最悪ですね。空港のロビー、駅構内や列車の中なども狙われやすい場所ですし、混雑した地下鉄車内も要注意。レストランで席に着く時や帰るとき、また食事の最中でも荷物をうっかり座席に置いておいて盗られてしまったケースもあります。ショッピングに夢中になって注意がおろそかになった時も危険です。

うっかり携帯電話を使いながら運転中に警察に見つかれば罰金ものなのだが

自分の荷物を置いて、色々試していて気が付いたら、自分の荷物がなかったなんてこともあります。意外にコンサバなイタリア女性の服装日本の女性の服装は実は世界的に見ても極めて開放的で、欧州からやってきた人間が驚くこともしばしばです。先日来日した英国人は日本に何度も来ているのですが、それでも渋谷の路上で,”Tooshort!”と言う言葉を連発していました。もちろんスカートの丈の話ですね。イタリアでもリゾート地だとか、ミラノのファッション業界の女性などを除けば、服装のスタイルについては比較的オーソドックスと考えてよいでしょう。

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ピサーノが建築した夜通し語り合っていたときに

ローマ時代には

彼の並外れたバイタリティはどこから来たのか、実はアブルッツォに来た最大の理由はその源泉を知りたいがためであった。私はアブルッツォ国立考古学博物館」で見たあの「戦士カペストラーノ」とヴァリニャーを重ねてみた。二五00年以上前の山岳部族の強い精神は悠久の時を経ても変わらず、ヴァリニャーノに受け継がれていたのだろう。ローマ帝国崩壊後のキエティ西ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう。幸いにビザンチン帝国が東ゴート族を滅ぼすと、キエティに「テアーテ公国」が建設される。ローマでも指折りのデパートリナシェンテがあります

住民登録をチェックして送って来るらしい

キエティがデアーテ」と呼ばれていた安定した時代である再び歴史の流れが一気に変わるのは、五世紀から九世紀にかけて酉ヨーロッパを支配したゲルマン系のフランク王国の侵入であった。キエティは八01年にフランク王国によって破壊されてしまう。外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていく。時が流れ、一二世紀になるとあたり一帯の領土はラクイラの章で登場したあのフェデリコ11世の「神聖ローマ帝国」になる。ノルマン人も住むようになるとキエティは経済的にも文化的にも落ち着き始めた。


ローマはなんと
ローマはなんと

イタリア語会話にも余り出ていないし

イタリアで最も美しい町の一つに選ばれたと知ったのは恋人たちの家は、お互い激しく対立していたことにもなっている。それは両家が、当時半島を二分していた抗争の真っ只中にいたからだ。イタリアの各都市はそれぞれ、ローマ法王を支持する(ゲルフ派)か、それともドイツを拠点とする神聖ローマ皇帝の傘下に加わる(ギベン派)かの二者択一を迫られた。どこの街でも、その中は両派に分かれ、果てしない主導権争いが続いていた。見に来たれよ、モンテッキ家とカッペッレッティ家の人々を、(中略)その思慮なき人々は、(ダンテ·アリギエーリ、『神曲』煉獄篇、第六歌CVI-CV111、筆者訳)すでに悲しみの中にいた一三一二年から一三一八年頃まで、抗争のあおりで亡命中だったダンテがヴェローナに滞在している。ローマ教皇と神聖ダンテがそのとき潛き残した両家こそ、恋する二人のそれぞれの家のモデルとなったものだ。ただし当初は悲恋物語とは関係なく、ヴェローナのギベリン派モンテッキ家がサン·ボニファチオ家に打倒され、ゲルフ派でクレモナを地盤とするカッペッレッティ家がペラヴィチーノ家に敗れた史実を詠ったまでだ。しかし恋の話はともかくも、有名な伝説の設定は、れっきとした事実に基づいていたわけである。しかし、ここからシェイクスピアの有名な戯曲になるまでの道のりは、とても長く複雑だシエナに戻ったガノッツァは、首を斬られた恋人を発見し、その亡骸の上で悲しみのあまり死んでしまった。チョ·サレルニターノ、r11Novellino[小説集]』、第三三話MariottoeGanozza」、筆者訳)(マズツおそらくは各地に残る悲恋の伝承をもとに、サレルニターノが一四七六年に発表した物語マリオットとガでは、舞台こそシエナとなってはいるものの、その後の大筋はほぼできあがっている。

イタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう

大手銀行や事務所や店舗が重い錠で閉鎖されていた。その扉には蜘蛛の巣が張っていた。皇帝vs法王の権力争いの始まりこの町は前述したフェデリコ二世(一一九四-一二五○)というイタリア史上最も「国際人」といわれた神聖ローマ帝国の皇帝が築き上げた新しい理想都市であった。そのコンセプトにはフランスやローマ法王に対抗するための都市計画が念入りに盛り込まれている。皇帝フェデリコ11世と法王との戦いは、相続問題を含む領土の奪い合いであった。


元老院とよく協調して政治にあたり
元老院とよく協調して政治にあたり

ローマ人が造った1万人も座れる巨大野外円形劇場の跡地が一九九三年に発掘され

ドイツの神聖ローマ帝国とローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは、この皇帝フェデリコ二世から始まるのである。それは同時にイタリア全土に「皇帝派」と「法王派」という二つの派閥を作ることになる。そして、イタリアは神聖ローマ帝国、スペインのアラゴン王家、そしてフランスのアンジュー家の激しい争いに巻き込まれ、翻弄されていくのだった。聖地エルサレムとフェデリコ二世シチリアで育ったといわれ、英才教育によって高い教養を身につけたフェデリコ二世が造り出した、斬新なラクイラの都市構造には、さらに話の続きがある。この構造が、あの「聖地エルサレム」と同じ配置をしているというのだ。イタリアならではであるまず最初は目指す通りの名前を地図で探すのに一苦労する

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ラクイラでサン·ベルナルディーノ大聖堂が建設される

イタリアの呼び名まで違ってくるので

町が誇るマルチーニ劇場もその一つである。アブ»ッツオ考古学国立博物館へマルチーノ通りという、日本でいえば銀座通りのようなおしゃれな通りをしばらく歩くとトレント·トリステ広場」にぶつかった。その広場から延びる「一一月四日通り」をまっすく行くと、噴水のある円形の庭園に辿り着いた。どうやらここにお目当てのアブルッツォ国立考古学博物館」があるらしい。そこに、あの「戦士カペストラーノ」の本物が飾られているのだキョロキョロあたりを見渡すと木々で覆われた高台があり、客が見えた。

「あの森のなかだ」階段から下りてくる数人の観光階段を一五段ほど上るとそこには品の良い三階建ての重厚なクリーム色の館があった。博物館というよりは貴族の邸宅といった趣だった。博物館の前庭に玉砂利が敷かれており、その上をザクザクと音を立てながら入口に向かっていった。胸の鼓動が高鳴るのは、ロマンをかき立てる謎の遺跡がまもなく見られるからだった。「戦士カペストラーノ」の彫刻博物館のガラスのドアをゆっくり開けた。

  • 15世紀にはスペインが直接支配
  • ミラノのタクシーは安全かと聞かれることがよくあった
  • 平民だけで開かれる集会と

ローマを目指したのです

イタリア語を使うようになってまずびっくりしたのはタリアコッツオ「ヨーロッパ史を変えた大事件」私は今、アブルッツォ州ラクイラ県の町、タリアコッツォに立っている。思えばこの州を訪れる決断をするまでに、三0年という長い月日が流れたが、やはりこの時間が私には必要だったのだろう。ローマから最初に足を踏み入れたこのラクイラ県の町、タリアコッツォから私の旅は始まった。読者はイタリアの歴史のなかで、「タリアコッツォの戦い」という言葉を聞いたことがあるだろうか。この戦いはイタリアというよりも、世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だった。

土曜日に前倒しで行われたりその歴史を動かした舞台をさっそく訪れてみよう。イタリア語で旧市街をチェントロストリコ(歴史地区)と呼ぶが、小さな町ではたいてい城壁の外にある駐車場に車を止めなければならない。中世の時代、車が通れる道幅など考えていたわけではないからだ。車一台がやっと通れるか通れないかというような細い道ばかりである門をくぐってゆっくり城壁内に入ると、まるで中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われた。大きな広場の中央にはオベリスクが立っている。

スリや置き引き

の、アビニョン捕囚から最初にイタリアに帰ってきた法王、マルティヌス5世。1420年以降、教皇はまたイタリアバチカンに戻ってくるのでした。そして1450年を聖年とし、それ以来多くの巡礼者がイタリアを訪れるのでした。その勢いに乗って、ローマのヴァチカン宮殿、サンピエトロ大聖堂の改築などが始まるのでした。この建設ラッシュにかり出されたのが、そう、ダヴィンチと並ぶルネッサンスの巨匠、ミケランジェロとラッファエロなのでした。

イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが

ナポリ王国と呼ぶようになったラッファエロにはこのサンピエトロ大聖堂建設責任者として。そしてミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の建築を。この大事業に関して必ずお話しなくてはいけないことがあります。そう、この一世一代の大事業を成し遂げるためには、莫大な資金が必要だったのです。この資金調達のために行われたのが、そう、免罪符発布、「皆のもの天国へあがりたいのであるならば、自らの罪を払拭するためにはこの免罪符を買わなくてはいけない」このあまりに不合理な教皇の行動に待ったをかけたのが、そう、今のドイツのドレスデンで修道士をしていたルター。

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ローマ時代の闘技場から来ているのです

北部が寒く南部が温かいという日本とよく似た状況です

ローマ当時のままの唯一の町として知られています★トレヴィの泉ローマで最大の噴水。映画「甘い生活」でアニタ·エバーグがやっていたように、泉に背中を向けてコインを投げると願いが叶うと言われています。いっしょにいられる。3枚だと嫌いな伴侶と別れられる」というように投げる枚数によって、叶う願いの内容に違いがあるとされています。「1枚だと、ローマを再訪できる。イタリアくらいでしょう狼のお乳を飲む子供の像がご覧戴けるのです

イタリア人が働かなかったら

当時世界最大の規模とするべく拡張案へと変更された

2枚だと愛する人と★サンタンジェロ城テヴェレ川の岸にある城塞です。元々は第14代ローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟として作られました。るのが、観光客の定番になっています。屋上からローマの街が一望できます。建物に続く橋には、ベルニーニによる天使の彫刻像が並んでおり、橋を入れて建物の正面から写真を撮影す★コンスタンティヌスの凱旋門ローマ建築を代表する、古代ローマの凱旋門。

国民の不満を残したのでし第

主要都市間を移動する場合、時間の正確さや、移動時間を短縮し途中の車高速新線の全面開通2009年12月にミラノーボローニャ·フィレンツェ間の高速新線が全通し、既に開通していたフィレンツェ·ローマーナポリ間と繋がって、通高速列車(日本で言えば新幹線)が走るようになり、鉄道のサービスが飛躍的に向上しました。ミラノ-ナポリ間を直以前は遅れることで悪名高かったイタリアの鉄道ですが、最近ではほぼ定刻通りに運行されることが多くなりました。高速列車(アルタ·ヴェロチタ、略してAVと表記される)の所要時間はローマーナポリが1時間、ローマーフィレンツェが1時間半、フィレンツェ-ボローニャが40分、ボローニャ-ミラノが1時間です。特にフィレンツェ-ミラノ間はそれまで3時間近くかかっていたのが,時間以上短縮され、大変便利になりました。また従来はFS(FerroviedelloStato=旧国鉄)のみのサービスだったのが、民営化に伴い、イタロ(Italo)と呼ばれる別会社の高速列車も導入され、ビスを競い合うようになり、サービス全般が改善されたのは我々外国人ツーリストに取ってもありがたいことです。

このような辺鄙な山の中をうねうねと通っていたおかげ

お互いにサー列車の種類さて、イタリアの列車の種類について。先ほどご紹介した高速列車(AV)は赤い車両でフレッチャ·ロッサ(「赤い矢」)の愛称が付いていますが、同じ高速列車でもフレッチャ·アルジェント(「銀の矢」)と、これらより停車駅の多いフレッチャ·ビアンカ(「白い矢」と言う特急列車があって、基本的に全席指定ですので、事前に乗車券を買っておかねばなりません。価格は事前に購入すると割安になる場合が多く、ネットでも予約は可能です。以前は1等と2等しかなかったこれらの高速列車は、近年等級区分が改定され、上級クラスからエクゼキュティブ、ビジネス、プレミアム·エコノミー、エコノミーと飛行機のような等級区分となり、それぞれ値段が異なります。高速新線以外の言わば在来線を走る列車としては、IC(インターシティ)が在来線特急にあたりますが、こちらは従来通りの1等と2等のシンプルなクラス分け。
イタリアにはまだ沢山あるのも事実だが

終点のティラノでレティッシェ鉄道に乗り換え道が技術指導を受けたという山岳鉄道で

一五世紀になるとテラモ県の章でも触れた「ナポリ王国」ができ、スペインのアラゴン王アルフォンソ五世の統治下で、キエティは一層華やかな歴史の光景に包まれていく。ここで、われらのアレッサンドロ·ヴァリニャーノの登場であるヴァリニャーノの銅像案内書を読むと、彼の没後四00年を記念して二六年に銅像が建立されたとある。私は早速「ヴァリニャーノ」に会うためにその場所に向かった。「マルチ-11通り」に「ヴァリニャーニ塔」という名前の塔があり、さらに進むと五差路の広場にぶつかった。そこも「ヴァリニャーニ広場」とあった。

ローマ帝国領として奪還されたのでした

「ヴァリニャーノとヴァリニャーニと名前が似ているわ」そう思いながら、まるで恋人を探すような青春時代の気持ちになって、さらに歩いて行った。銅像が立つところは、現在では「ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世広場」と呼ばれ、一八七〇年のイタリア統一の立役者、初代国王ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世の偉業を称えて「サン·ジュスティーノ大聖堂広場」からこの名に変わったキエティのメイン広場であった。だが、残念なことに広場は駐車場になっていたので、広場というイメージはなかった。車が邪魔をして、私は銅像をすぐには見つけることができなかった。あたりをぐるりと見渡すと、キエティ市が誇る「サン·ジュスティーノ大聖堂」がそびえ立っていた。

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最後に複数形の.1で終わるのに気づいていますか

イタリアのスポーツと言えば誰でもまず最初に思い浮かべるのがサッカー

到着ギリギリまで番線が案内されないことも多いので、その時はこうした案内板の近くでひたすら待つしかありません。多いので、手荷物には常に注意し、貴重は絶対に手元から離さないように気をつけましょう。その際に置き引きなどの被害に遭う事が出発番線がわかったら、ホームに向かいます。気を付けなければいけないのは、以前はイタリアの駅には日本のような改札口がなかったのですが、2015年春からミラノ中央駅には新たに改札ゲートが設置され、乗車券を持っていないとホームに入ることが出来なくなりました。フィレンツェやローマでも長距離高速列車のホーム入口で係員が乗車券をチェックするようになったようですが、これが他の駅にも広がるのかどうかは定かではありません。英語ではジョン

独特の薬草のような癖のある長い紐状のキャンディーが大きな割合を占めている

改札口のない多くの駅では乗車券がなくてもホームに入れるし、列車にも乗れてしまうのですが、座席指定のない乗車券の場合、駅で入場する際に必ずプラットホームの端にある改札機(写真参照)でスタンプを押さなければなりません。これを押し忘れると検札で罰金を取られることもあるので、ご注意ください。なおネットで乗車券を予約した場合には、この改札機を使う必要はありません。ホームの天井にはモニターが設置されていて号車番号が示されているので、例えば5号車なら5の表示のモニター付近で待機しましょう。始発駅ならそのまま乗リ込んでしまえば良いのですが、途中駅の場合は降りる人が終わってから乗り込みます。


カプチーノを頼んではいけませんよ
カプチーノを頼んではいけませんよ

ミラノ市内の墡店で写真入りのオペラ辞典を買い求め

ローマの支配階級の常ではありましたが雄大さと壮麗さにおいて、ここの建築物と比肩するものはなく、優美さにおいてここの噴水や庭園に勝るものなどありはしない。(アルベール·ジューヴァン·ド·ロシュフォールによる一六七二年の旅行記、筆者訳)一七世紀のパレルモを旅したフランスの碩学による、された観光客はとまどいを禁じえない。この最大限の賛辞を前に、今日のパレルモの中央駅広場で放り出いつ動くとも知れぬ車の列は、何の改善にもならぬことを知りながら、あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける。消えかかった横断歩道の上を、重いスーツケースを押しながら歩くあなたの進行方向に、信号など一切無視した二人乗りのスクーターが白煙をあげながら突っ込んでくる道端の手入れの悪い芝生の上を、無数の煙草の吸殻やビニール袋が、ハトの羽とともに舞っている。ここが、かつて地中海に覇をとなえたシチリア王国の都だったとは......。その他中央部にいくつかある小国というように最初にこの海岸に陣地を築いたのは、北アフリカに栄えたカルタゴの人々である。彼らは地中海全域に植民都市を建設して大ギリシャ時代を迎えていたギリシャ諸都市に対抗して、地中海の北上を試みた。ギリシャ諸都市の代表がシラクーザであれば、パレルモはカルタゴの砦だった。そして地中海交易がほとんど欧州における貿易のすべてであった長い時代その中央に位置するシチリア島は必然的に、さまざまな民族たちによる触手の危険にさらされる運命にあった。ポエニ戦争によるカルタゴの衰退後、パレルモのあるじはローマにとってかわられた。

パレルモはアラブ人というあらたな主人を迎えた

そのローマがゲルマン諸民族に蹂躙されてからは、パレルモも蛮族の属領となった。その後、皇帝領の回復をはかったビザンチン(東ローマ帝国)の庇護のもとで数世紀をすごしたが、八三一年、パレルモはアラブ人というあらたな主人を迎えた。しかし、パレルモが主要な文化都市として名をあげたのは、実は彼らがここに首都機能を置いてからのことである。彼らは寛容な宗教政策をとり商業と農業を発展させ、三0万人を超えるイタリア1の大都市に育てたところで、一〇七二年、領主の位をノルマン人たちに奪われたじゅうりんはるか北フランスからやってきたヴァイキングの末裔たちは、この南の地において、異なる民族·宗教間の対立を抑えた宥和政策をとる。そして一○九五年、大いなる野望を持ったロゲリウス二世(イタリア語読みでルッジェーロ、チェファルーの項で既出)が誕生した。


イタリア統一戦争と呼ばれるものです
イタリア統一戦争と呼ばれるものです

大理石を砕いて使用しておりました

彼は新しい官僚制度を敷き、アラブ人やギリシャ人を登用してその才能を生かし、類まれなる外交能力と軍の統率力により、シチリア全土のみならず、イタリア半島の南部をも手に入れた。彼は神聖ローマ皇帝の侵入を撃退し、ローマ法王の介入をしりぞけ、北アフリカ沿岸一帯を支配下に入れ、果てはビザンチン帝国にまで軍を送って領土拡張を試みた。彼の果てしなき野心を支えた王国の都としての時代、そして名君フリードリヒ(フェデリーコ)二世の治世下で、パレルモは押しも押されもせぬ一大文化都市として繁栄を謳歌した。たぐいしかしその後、パレルモのみならずシチリア全域を、不寛容の時代が襲う。この地を手に入れたフランスのアンジュ1家は、ナポリへ遷都し、その後とってかわったスペインとともに、イスラム社会を島から追放し、その文化的痕跡を消し去った。イタリアの風物詩といえるも

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ラッティオ州の王女ラビニア

シエナが優美な形態と色彩を得意とする画家シモーネ·マルティーニらを輩出すれば

世界遺産に登録されています。フランス·パリのエトワール凱旋門のモデルになっています。1960年のローマオリンピックではマラソンのゴール地点になりました。高さ21m、幅25.7m、奥行7.4mととても大きく、至る所に手が込んだ彫刻が施されています。コロッセオから近いので、いっしょに見るとよいでしょう。イタリア人が日本へ行ってまず驚くことの一つ

イタリアの国々と

★スパーダ宮ゴシック建築を代表する建物で、デコレーションケーキを連想させるような装飾が施されています。いか?と思うほどの錯覚を起こさせる、ほかでは味わえない摩訶不思議な体験ができます。多数の絵画が展示されていますが、いちばんの見所は「遠近法の間」。自分の目がおかしくなったのではなカトリックの中心地で教会巡り★サン·ピエトロ大聖堂バチカン市国にあるカトリック教会の総本山。世界最大級の教会です。


イタリアの学生が話し始めた
イタリアの学生が話し始めた

ペルージャの人という名で呼ばれる画家がいる

ヨーロッパ人はどうするのだろう?とマテーラに人々が住み始めた時期は、はるか旧石器時代にまで遡ることができるのだ。今でこそあたりはなかば砂漠化しているように見えるが、かつてマテーラの高原は木々の生い茂る森林地帯だった。眼下には川が流れ、谷の斜面は柔らかな凝灰岩でできている。そこにはすでに、いくつかの天然の洞窟があった。岩肌は夏には涼しく、冬は風雪から人々をまもった人々はそこに住み始め、家族が増えると、斜面にほら穴を穿って、横穴式住居を拡げていった。スタンダールやリスト家族の規模がもっと大きくなると、人々はさらに横や奥へ、上や下へとほら穴を延ばした。こうして穴は中で次第に複雑な構造を持つようになっていった。やがて一帯の樹木が減り、渓流の水位が下がっていくと、人々は雨水や地下水をためておく部屋をつくり、そこへ効率よく水を集めるための導管を整備していった。マテーラの外でいかなる変化がおころうが、人々はかたくなにこの生活スタイルを変えなかった。ほら穴から出た人々によって,あるいは他から移住してきた人々によって、丘の上に都市が築かれるようになっても、多くの人々が洞窟の中にとどまった。

ミラノに来た当初

では、「回文」が示す世界を作った「神」が「ヤハヴェ」ということなのだろうか。さらに、門番が語っていた紀元前一二年ごろに栄えたシリアのドゥラ·エウロポス遺跡からも同じラテン語の二五文字が発見されたことも事実だとわかった。ここはユダヤ人が建てた多くの神殿やシナゴーグが見つかった場所である私は、「回文」について抑えきれない好奇心がどんどん湧き出すのを感じた。アブルッツォ·コード現代のようなグローバルな時代ならわかるが、紀元前の人びとはどのようにしてヨーロッパ各地にこの「回文」を伝承したのだろうか。歴史の栄華の跡というものは、それがほとんど見えなくなっていればいるほど、妙に何かを告示しているような気がするものだ。


ローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです
ローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです

このルールが

私はそれを勝手に「アブルッツォ·コードと名付けた。イエス·キリスト誕生以前に各国に広まった「われらの父」とは誰なのか。まるで「隠れキリシタン的アイデアである。迫害のようなものから身を守るために、「回文」に願いを込めて密かにまことの「神」を祀り、その神に祈りを捧げていた信者たちがいたのではないかと連想したのである「シークレット·メッそれを信じる者たちが、それを信じない者たちから身を守るためにセージ」として各地に伝承したと考えるのは私だけだろうか。15文」と「雄牛を屠るミトラの像」ポンペイ遺跡の町の中心部には、『旧約聖書』に登場する「ソドムとゴモラ」の名前が木炭で落書きされている。ピサ軍からの11度にわたる挑戦をうけた

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ヴェネツィア特有のテラスに座り

ローマ皇帝ディオクレティアヌス時代に造られたディオクレティアヌスの橋

つまり太古の昔からここの観客たちは、舞台で繰り広げられる演劇を、圧倒的な力を誇示する大自然の借景のもとで眺めていたに違いない。さてシチリア島の最大の特徴は、何度も主人を代えたことによる文化の重層性にある。タオルミーナもその例にもれず次から次へと支配者を代えていった。中世には、この街は東ローマ帝国(ビザンチン)によるシチリア支配の拠点のひとつとなった。10世紀にはアラブ人が支配しており、岩の頂から街を見下ろす城も”サラセン人の城”と呼ばれている。

その後ここを統治したノルマン(ヴァイキングの末裔)王朝の時代には、街の現在の西半分ができあがった。彼らもまたこの地の絶景に驚いて、王宮へと詳細な報告を菩き送った。『グラン·ブルー』で、イタリア国旗を模した赤白緑の三色スイムスーツを着たエンツォは、無理な記録に挑戦して死んでしまう。そして彼を追うかのように、マイヨールもまた、深海でイルカについて行きこの世から去ってしまう。その後この予言に従うかのように、実在のマイヨール本人もイタリアで自殺を遂げた。

  • イタリアに実在する地名
  • ミラノの春はどんな季節と想像されるだろうか
  • 自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして

イタリア国内からの発信イタリア語学校は沢山あるし

イタリア自体ペスカーラ生まれのダヌンツィオが『死の勝利』で綴っているように、トラボツキがまるで「巨大グモ」のように網に掛かる獲物を狙っていた。美しく静かで厳かな雰囲気に満ちた由緒ある修道院。背後からゆっくりと近づいていった。飛び出た三つの半円形の祭室をもつ後陣が、息を呑むほど端正である。周囲は緑と花に囲まれた心が洗われるような優しさに包まれ、余計な装飾が一切ない、ストイックな雰囲気が漂っていた。

イタリア王国は言葉を失うほど厳かで、はるばる遠い日本から来て見学する価値は十分ある。オリーブの畑に囲まれた修道院は隠遁には格好な土地であった。ここでの精神生活はさながら雲上の天国にも匹敵したにちがいない。いんとん教会の中へ近づいて教会の門を開けようとしたが閉まっていた。この修道院のガイドブックを買うついでに、近くの売店にいた女性にいつ扉が開くのかと尋ねると、「神父が住む裏庭の建物にまわって、そこの呼び鈴をならしてみてください」と親切に答えてくれたそれほど観光地化されていない場所にちがいない。

タリアコッツォから私の旅は始まった

戦いに敗れ苦悩するアントニウスの心を癒してくれたのは、そうエリザベステーラー演じるクレオパトラのやさしい愛でした。勢いに乗ったオクタビアヌスは、クレオパトラに使者をつかわし、アントニウスの引き渡しを要求します。愛するアントニウスの将来を考えクレオパトラは申し出を承知するのでした。ところがこの屈辱にアントニウスは使者をムチ打って追い返し、敢然と戦いを挑んだのですが、圧倒的な軍勢を誇るオクタビアヌス軍が勝利を納めます。さらに敗れたアントニウスはこの戦いのすべての敗因はクレオパトラの裏切りにあると、いまにも彼女を殺さんばかりに激怒するのでした。

日本人学校に通う娘の中学の社会科の教科書にまで登場していたのには驚いた

ローマへの帰途恐れをなしたクレオパトラはアントニウスの気を沈めるために、砂漠に眠る秘密の廟に身を隠します。ある日、クレオパトラはアントニウスの愛を確かめるために、彼の怒りに苦悩するあまり自らの命を絶ったとの偽の知らせをアントニウスのもとに届けたのです。アントニウスはこの知らせに深く悲しみ絶望に打ちひしがれ、剣の上に身を伏せ、彼女の胸の中で死ねるように衛兵に命じて、クレオパトラの秘密の廟に運ばせました。運ばれてきた瀕死のアントニウスに、クレオパトラは悲しみの涙で頬を振るわせて、2人の運命の非情さを嘆き悲しみ、毒蛇を胸にあてがって、アントニウスの傍らに横たわると静かに息絶えるのでした。アウグストゥス(オクタビアヌス)前63~後14さて、実はシーザーの遺言により、養子かつ相続人となったのがこのオクダビアヌスだったのです。