イタリアでも最近は蕎麦を自国では生産しておらず、日本同様中国やカナダなどから輸入しているそうで、蕎麦粉に変わりはない筈だが、この蕎麦粉、どうもビッツオケリの方が合っているように思ったのは気のせいだろうか

ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう

ペルージャで開催されている言葉を失うほど厳かで、はるばる遠い日本から来て見学する価値は十分ある。オリーブの畑に囲まれた修道院は隠遁には格好な土地であった。ここでの精神生活はさながら雲上の天国にも匹敵したにちがいない。いんとん教会の中へ近づいて教会の門を開けようとしたが閉まっていた。この修道院のガイドブックを買うついでに、近くの売店にいた女性にいつ扉が開くのかと尋ねると、「神父が住む裏庭の建物にまわって、そこの呼び鈴をならしてみてください」と親切に答えてくれたそれほど観光地化されていない場所にちがいない。
つまり太古の昔からここの観客たちは、舞台で繰り広げられる演劇を、圧倒的な力を誇示する大自然の借景のもとで眺めていたに違いない。さてシチリア島の最大の特徴は、何度も主人を代えたことによる文化の重層性にある。タオルミーナもその例にもれず次から次へと支配者を代えていった。中世には、この街は東ローマ帝国(ビザンチン)によるシチリア支配の拠点のひとつとなった。10世紀にはアラブ人が支配しており、岩の頂から街を見下ろす城も”サラセン人の城”と呼ばれている。

海外領土を一挙に増やした常勝将軍を理由なく追放はできないと、そこでポンペイウスは巧妙な作戦を考えつくのでした
その後ここを統治したノルマン(ヴァイキングの末裔)王朝の時代には、街の現在の西半分ができあがった。彼らもまたこの地の絶景に驚いて、王宮へと詳細な報告を菩き送った。『グラン·ブルー』で、イタリア国旗を模した赤白緑の三色スイムスーツを着たエンツォは、無理な記録に挑戦して死んでしまう。そして彼を追うかのように、マイヨールもまた、深海でイルカについて行きこの世から去ってしまう。その後この予言に従うかのように、実在のマイヨール本人もイタリアで自殺を遂げた。

 

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ローマ通りという目抜き通りの坂道を歩いているとき
イタリア料理の量は日本人には多めです
ペスカーラ生まれのダヌンツィオが『死の勝利』で綴っているように、トラボツキがまるで「巨大グモ」のように網に掛かる獲物を狙っていた。美しく静かで厳かな雰囲気に満ちた由緒ある修道院。背後からゆっくりと近づいていった。飛び出た三つの半円形の祭室をもつ後陣が、息を呑むほど端正である。周囲は緑と花に囲まれた心が洗われるような優しさに包まれ、余計な装飾が一切ない、ストイックな雰囲気が漂っていた。

フィレンツェや言葉を失うほど厳かで、はるばる遠い日本から来て見学する価値は十分ある。オリーブの畑に囲まれた修道院は隠遁には格好な土地であった。ここでの精神生活はさながら雲上の天国にも匹敵したにちがいない。いんとん教会の中へ近づいて教会の門を開けようとしたが閉まっていた。この修道院のガイドブックを買うついでに、近くの売店にいた女性にいつ扉が開くのかと尋ねると、「神父が住む裏庭の建物にまわって、そこの呼び鈴をならしてみてください」と親切に答えてくれたそれほど観光地化されていない場所にちがいない。

 

ローマに通ずの格言通り、各地から


ローマだけは出張で来たことがない
戦いに敗れ苦悩するアントニウスの心を癒してくれたのは、そうエリザベステーラー演じるクレオパトラのやさしい愛でした。勢いに乗ったオクタビアヌスは、クレオパトラに使者をつかわし、アントニウスの引き渡しを要求します。愛するアントニウスの将来を考えクレオパトラは申し出を承知するのでした。ところがこの屈辱にアントニウスは使者をムチ打って追い返し、敢然と戦いを挑んだのですが、圧倒的な軍勢を誇るオクタビアヌス軍が勝利を納めます。さらに敗れたアントニウスはこの戦いのすべての敗因はクレオパトラの裏切りにあると、いまにも彼女を殺さんばかりに激怒するのでした。

ヴェネツィアローマ帝国
恐れをなしたクレオパトラはアントニウスの気を沈めるために、砂漠に眠る秘密の廟に身を隠します。ある日、クレオパトラはアントニウスの愛を確かめるために、彼の怒りに苦悩するあまり自らの命を絶ったとの偽の知らせをアントニウスのもとに届けたのです。アントニウスはこの知らせに深く悲しみ絶望に打ちひしがれ、剣の上に身を伏せ、彼女の胸の中で死ねるように衛兵に命じて、クレオパトラの秘密の廟に運ばせました。運ばれてきた瀕死のアントニウスに、クレオパトラは悲しみの涙で頬を振るわせて、2人の運命の非情さを嘆き悲しみ、毒蛇を胸にあてがって、アントニウスの傍らに横たわると静かに息絶えるのでした。アウグストゥス(オクタビアヌス)前63~後14さて、実はシーザーの遺言により、養子かつ相続人となったのがこのオクダビアヌスだったのです。

ヴェネツィアは地中海一の貿易港として繁栄し、富を求めて世界中を行き交う男たちが集う場

ヨーロッパのレストランで爪楊枝が必ずといって良いほどテーブルの上に出てくるのは

ローマ·テルミニ駅行きのフレッチャロッサ9690列車は13番線に到着します男性が女性を尊重したり献身的に愛したりすることは堕落だとされていました。日本人は強いグループ意識と個人が全体へ服従する意識に支えられています。私は個人を尊重することを彼らに教えたのです。布教するならば、日本人を特徴づけている多くの美徳を尊重することがとても大事なのです。たとえば人間の尊厳の自覚や、異なった階級間における互いの尊重、ホスピタリティそして人を思いやる気持ちや清潔感などがそうです」私は冷静な語り口のヴァリニャーノが好きになった。
あらゆるヨーロッパ諸国がこのイタリア半島に魅特に、古代ローマ帝国の崩壊以降、ドイツとフランスのどちらがこのイタリアを支配するかで争いが絶えなかった。イタリアの政治は絶えず不安定で、いわば天下は実力のある者の回り持ちだった。その天下分け目の合戦が一二六八年にこの場所で起きた。それが「タリアコッツォの戦い」で、あのダンテも『神曲』の中でこの争いを活写している。イタリアの三分の一を支配するドイツ人の「神聖ローマ帝国」にフランスはずっと嫉妬していただろうし、イタリア人たちにとっては神聖ローマ帝国の皇帝であるドイツ人に恐れおののいていただろう。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

ローマ帝国を滅亡に追い込むことに成功したのは西ゴート族
だからこそ、一二五○年に神聖ローマ帝国を統治していた皇帝フェデリコ二世が亡くなると彼の出身であるホーエンシュタウフェン家に、もはや明日はなかったのである。次に王座を狙ったのは言うまでもなく法王と組んだフランスのアンジュ-家であった。法王庁は一気にホーエンシュタウフェン家を潰しにかかったのだ。この戦いの後、イタリアはしばらくフランスの配下となる。だが、このフランスもその後シチリアの民衆に嫌われ、一二八二年に「シチリアの晩鐘事件」と呼ばれる大事件が起きる。!

 

ローマ帝国滅亡までのほぼ11実は東

ミラノはローマ時代以前から続く古い都市なのですが、前述のロンゴバルド族の侵攻を受けたり、神聖
ローマに立ち上がり
さらに、我々、キリスト教徒の間では一夫一婦制ですが、日本は正妻のほかに愛人をもつ習慣がありました。私はこれに関しては間違っていると日本の女性たちに語りました。彼女たちは私の話に感銘し、洗礼を求めてきました。私のメッセージに敏感にこたえるのは男性よりも女性たちでした。日本の女性は子供の頃は父親に、結婚すると夫に、未亡人になると長男に従うという男性への三つの服従がたたき,まれます。

イタリアとは言い難い男性が女性を尊重したり献身的に愛したりすることは堕落だとされていました。日本人は強いグループ意識と個人が全体へ服従する意識に支えられています。私は個人を尊重することを彼らに教えたのです。布教するならば、日本人を特徴づけている多くの美徳を尊重することがとても大事なのです。たとえば人間の尊厳の自覚や、異なった階級間における互いの尊重、ホスピタリティそして人を思いやる気持ちや清潔感などがそうです」私は冷静な語り口のヴァリニャーノが好きになった。

 

ローマ法王を支持するゲルフ派か、それともドイツを拠点とする神聖


イタリア在住の作家、塩野七生さんの著作
そして舞台は再びエジプト、そしてクレオパトラへ。エリザベステーラーの映画クレオパトラ偉大な英雄ジュリアス·シーザーが暗殺されて4年、大ローマ帝国ではしばらくの平安が保たれていました。シーザーの寵愛を受け、シーザーの甥オクタビアヌスとレピドゥスらとともにローマ帝国を統治していた武人アントニウス(映画ではリチャードバートンが演じます)は、クレオパトラとの熱い恋に陥っていました。いま北アフリカにおり、エジプト女王彼は部下の信望厚く、その長けた統治力であまねく北アフリカをおさえていたのですが、本国イタリア各地では、内乱の兆しが見え始めていたのです。ローマではアントニウスの妻と弟がなんとオクタビアヌスに戦いを挑み、不運にも破れ二人は殺害されたとの報がアントニウスのもとに届きます。

ローマは、今のシチリア、サルディーニャ、コルシカからカルタゴ軍を追い出し
そんな中、三頭政治、これに反対するポンペイの反乱という事件が起きます。アントニウスは急きょローマに戻り、3人の執政官の強固な結束をはたしてポンペイ軍を制圧するために、これによりポンペイ軍壊滅に成功。しかたなくオクタビアヌスの姉オクタビアと婚姻するのでした。平安を取り戻したローマ帝国を後に、と巨万の兵を送り込んだのです。オクタビアの手を振り切って、クレオパトラのもとに走ると、オクダビアヌスは、このアントニウスの,族に対する侮辱と背徳行為に激怒し2人の住むアレキサンドリアへこの戦いはアントニウスの完全なる敗北に終わります。

イタリア人のお喋りの大きな理由そしてテーマの一つはこのカンパニリスモにあるのではないかと見ている

イタリアはローマ帝国の末裔、言わば西欧文化の中核をなした国だから全てが日本で言う洋式かと思うと大間違い

ラクイラ市内を歩きながら、なんとしてでも辿り着きたい場所がもう一つあっトスカーナ地方のそれにしても、紹介をしてくれた院長先生は産婦人科ではイタリアで最高権威の一人だそうだが、自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして、別に個人で診療所は持っているし、別の病院でも週に一日は診察しているという超多忙ぶり。このほか医者向けの専門書も書いているとのことで、一体どこからそんな時間が出てくるのだろうか。偉い先生の割には偉ぶったところがないのは、国民性の違いかそれとも医者もサービス業と心得ているせいなのかは良く判らない医療水準といった点では日本とイタリアの差は感じないが、大きな違いを感じたのは診察を受けた際の情報は全て患者に帰属すると言う点である。例えば、家内が受けた超音波検査や血液検査のデタは全て分析結果のコメントと共に渡してくれる。従って、検査を受けた病院以外でもこの資料を見せて医師の診療を受けることが出来る訳である。
日本人はすぐビールを頼みたくなるのですが、イタリアではピッツェリアやバール以外でビールを頼むことは余りありません。この質問の真意は「ワインと水はどうするの?」と言うことで、もしお酒が飲めないなら、堂々と水(ミネラル·ウォーター-アックア·ミネラーレ)を頼みましょう。その際にガス入り(ガッサータまたはフリザンテ)か、ガスなし(ナトゥラーレ)なのか、はっきりすることです。ワインについてはよく判らなければ、ハウスワインを頼んでおけば間違いはありません。メインが肉なら赤、魚なら白は基本ですね。

お気に入りのイタリアのお土産

ローマ皇帝カール五世を讃えて作られたモニュメントだった
さて、ここで注意する点があります。日本では基本的に前菜から主菜にあたる料理まで、ほぼ同時並行的に出て来るのが特徴ですが、イタリア料理は単線的で、一つの段階が終われば次に進むという具合(余談ですが、イタリア人の仕事のやり方もそうです)。従って、例えば数人のグループで、一人だけ前菜をさっさと食べ終わってしまったり、逆にまだ食べ終わってなかったりすると、基本的には次の料理と進めないので要注意です(お酒を飲む方がワインばかり飲んで、料理に手を付けないとこう言う現象が起こります)。CHIANTICLANSiroORMANNもう一つ注意しなければいけないのは、ワインは基本的に料理に付随するものだということです。主役はあくまで料理なので、料理は手を抜いてワインだけは飛び切り高級と言う飲み方はイタリアでは邪道です。

 

イタリア全国で公開している館のガイドブックを発見したの

イタリアが統一される前後の千八百年代半ばには
ローマの中心地にはもう空いている土地などあまりなかったのです
医師からもらった処方箋には三種類の薬がいてあったのだが、薬局のお兄さんは二種類しか薬をくれない「もう一つは?」と聞いたら、これはリポーザだから良く眠りなさいと言うことだと言われてしまった。確かに殴り書きの処方箋を目を凝らして見るとリポーザと読めなくはない。辞書を引いてみたら休息のこと。確かに睡眠は良薬の一つには違いがないのだが医者も知り合いを通じて行くと全然取り扱いが違うのもコネ社会のイタリアらしいところ。家内が妊娠したので、某病院の院長先生から別の病院の先生に紹介され、約束の時間に病院に行ったところ、待合室で待たされもせずに、わざわざこの先生(プロフェッソーレつまり教授である)が迎えに出てきてくれたのにはびっくりした。

イタリアブームの相乗効果で今や案内書が山ほど出版されているから、私如きがここでいちいち取り上げる必要もないが、数を重ねる内に気付いたことを二つ、三つそれにしても、紹介をしてくれた院長先生は産婦人科ではイタリアで最高権威の一人だそうだが、自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして、別に個人で診療所は持っているし、別の病院でも週に一日は診察しているという超多忙ぶり。このほか医者向けの専門書も書いているとのことで、一体どこからそんな時間が出てくるのだろうか。偉い先生の割には偉ぶったところがないのは、国民性の違いかそれとも医者もサービス業と心得ているせいなのかは良く判らない医療水準といった点では日本とイタリアの差は感じないが、大きな違いを感じたのは診察を受けた際の情報は全て患者に帰属すると言う点である。例えば、家内が受けた超音波検査や血液検査のデタは全て分析結果のコメントと共に渡してくれる。従って、検査を受けた病院以外でもこの資料を見せて医師の診療を受けることが出来る訳である。

 

イタリア社会共和国を樹立した


イタリアというのは何とも人間中心の国ではなかろうかと思わざるを得なかった
一○七五年には教皇位の優位と不可侵、そして世俗権力による一切の聖職任免の禁止を公布する。聖職叙任権闘争の堂々たる宣戦布告である。怒った神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は独自に宗教会議を開催し、グレゴリウス七世の廃位を一方的に宣亨る。「ローマに、教皇を連れて皇帝がやって来るだろう。なぜならそこにいるのは教皇ではなく、狼だからだ」。

ローマ教皇庁のガスパッリ枢機卿とラテラノ条約を結びます
こうした侮辱がなされている間、聖庁長官は怒りのあまり、自らの剣で特使を殺したい衝動に駆られた。もし主がおしとどめていなければ、殺していたかもしれない。(ドニゾーネ、『カノッサのマティルデの生涯』、一二世紀、パオロ·ゴリネッリ編による一九八四年ジャカブック版より、筆者訳)そこで教皇は伝家の宝刀を抜く。皇帝を破門したのである。「破門」は、当時のキリスト教世界では死に等しい。

ローマ軍により死に追いやられるのでした

ローマの司令官に重傷を負わせます

ローマにある古代の遺品や名高い廃墟を見て、かつて勝利をあげた皇帝たちが凱旋してきたときのアドリア海は人間の五感に訴える場であった。チャーノ「トロイの子孫が住む町」アドリア海から内陸に10分ほど走った場所にランチャーノの町がある。町に着いたのがお昼時であったこともあり、旧市街は静まりかえっていた。「この静けさはアブルッツォらしい」と思った。観光地化されず、町の人びとのペースで動いているからだ。
さきほど一緒に中に入ったイギリス人カップルは、人数を数えていた。このフレスコ画の前に立ち、長老たちの回文とフレスコ画に込められた謎私はゆっくりと出口に向かった。教会内の柔らかい光に目が慣れていたので外の光が眩しかった。思い切り深呼吸をしてから、もう一度ファサードを眺めた。そこには、次のように端正でみごとな文字列が逆さまに輝いていた。

買い忘れた時でも大丈夫、オーストラリアのお土産

ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語だったのです
「SATORAREPOTENETOPERAROTAS左右どちらから読んでも、また上下どちから読んでも、また逆さまに読んでもAREPOTENETOPERAROTAS」と読めるのだ。「SATOR私がじっとその壁を見ていると、門番の老人が近づいてきて「この回文と同じ文句がイタリアには幾つもあるんだよ。シエナの大聖堂やポンペイの近くのへルクラネウムの遺跡とかにね。イギリスのサイレンセスターやシリアのドゥラ·エウロポス遺跡にもね……」老人は、この回文には謎が多く、研究されてはいるが決定的な意味はまだわかっていないのだと、まるでガイドのように教えてくれた。この言葉の意味は、「アレポという農民が馬を曳いて農地を耕し仕事をする」となる。

 

イタリア語でしか書かれていない場合が多いから、日本語だけを見ていると一番肝心な料理を逃してしまうことになるので、注意が肝要

ミラノで傑作でもあり、また危険なのは、女性かと思うと女装した男性もしくは性転換した男性が街角に立っていることで、そのような場所は名所と化しているらしく、夜になると郊外から来る見物の車で引きも切らない
イタリア語の学校が並立している
この修道院のハイライトはこの回廊だった。中庭はバラが咲き誇り、パームの木が端正に植えられ、回廊の天井を見上げるとテラコッタの世界であった。ここでのんびり青空を見ながらベンチで本を読みたかったが、まだまだ先がある旅なので、次の町、ランチャーノに向かうことにした。アブルッツォ州の海岸沿いの町を巡ってきたが、海は潮風と磯の香りがするものと思っていたのに、アドリア海はただただ澄み切った水の匂いしかしなかった。そして、無色であるはずの水が、限りなく多彩であった。

ローマではミケランジェロがピエタ>の制作に着手していたアドリア海は人間の五感に訴える場であった。チャーノ「トロイの子孫が住む町」アドリア海から内陸に10分ほど走った場所にランチャーノの町がある。町に着いたのがお昼時であったこともあり、旧市街は静まりかえっていた。「この静けさはアブルッツォらしい」と思った。観光地化されず、町の人びとのペースで動いているからだ。

 

ペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ


イタリアの中世の歴史を物語る要塞がある
その後ローマ人(ラテン人)たちが街を受け継いでさらに発展させた街のシンボルとなっている”ギリシャ劇場“も、現在私たちが目にしている姿は、実際にはローマ人たちがほとんど全面的に手を加えたあとの状態である。ローマ時代には、ギリシャ悲喜劇のかわりに、コロッセオよろしく血で血をあらう剣闘士同士の殺戮ショーが好まれた。そのため、演出用の”せり出し“を付けるべく、オルケストラ(平土間)中央に地ド溝が掘られている。さつりくこのギリシャ劇場は、観客席の最大直径で100メートルを越えるほどの大きさがあり、シラクーザにあるものに次いでシチリア第二の規模を誇っている。そして保存状態の良さでは、おそらく他の追随を許さない。

フィレンツェ共和国等は生き延びはするのですが弱体化していったのでした
やはりローマ時代に加えられた舞台正面壁(スカエナエ·フロンス)もかなり状態良く残っており、往時の威容を想像させる。半円形の観客席に腰をおろすと、舞台のはるか向こうの左手には青い海がひろがり、右手にはエトナ26端正な姿が目に入る。富士山と大きさも形もよく似たエトナ山は、古くから噴火記録が残されている活火山であり、ほとんど常に噴煙をあげている。ここ数十年の間だけでも何度か噴火を繰り返しており、かつて劇場に座っていた観客たちも、遠くエトナ山の山肌を真っ赤な溶岩が流れ落ちていく様を見ていたに違いない。そして、その上に広がる真っ青な空を、白い雲がかなりの速さで泳いでいたことだろう。

ローマなどに逃げていたのですが、火砕流が発生した時に市内に残っていて助からなかっ発掘された肖像画、フレスコ、国立

イタリア風に替えさせるということだったらしい

ローマの属領としたのでしたお互いにサー列車の種類さて、イタリアの列車の種類について。先ほどご紹介した高速列車(AV)は赤い車両でフレッチャ·ロッサ(「赤い矢」)の愛称が付いていますが、同じ高速列車でもフレッチャ·アルジェント(「銀の矢」)と、これらより停車駅の多いフレッチャ·ビアンカ(「白い矢」と言う特急列車があって、基本的に全席指定ですので、事前に乗車券を買っておかねばなりません。価格は事前に購入すると割安になる場合が多く、ネットでも予約は可能です。以前は1等と2等しかなかったこれらの高速列車は、近年等級区分が改定され、上級クラスからエクゼキュティブ、ビジネス、プレミアム·エコノミー、エコノミーと飛行機のような等級区分となり、それぞれ値段が異なります。高速新線以外の言わば在来線を走る列車としては、IC(インターシティ)が在来線特急にあたりますが、こちらは従来通りの1等と2等のシンプルなクラス分け。
★トレヴィの泉ローマで最大の噴水。映画「甘い生活」でアニタ·エバーグがやっていたように、泉に背中を向けてコインを投げると願いが叶うと言われています。いっしょにいられる。3枚だと嫌いな伴侶と別れられる」というように投げる枚数によって、叶う願いの内容に違いがあるとされています。「1枚だと、ローマを再訪できる。

情熱の国スペインのお土産と言えばこちら

フィレンツェ、サンジョバンニ洗礼堂、そう、竹内豊の映画”冷静と情熱のあいだ”で有名なあのフィレンチェ大聖堂ドゥオーモの正面にある洗礼堂
2枚だと愛する人と★サンタンジェロ城テヴェレ川の岸にある城塞です。元々は第14代ローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟として作られました。るのが、観光客の定番になっています。屋上からローマの街が一望できます。建物に続く橋には、ベルニーニによる天使の彫刻像が並んでおり、橋を入れて建物の正面から写真を撮影す★コンスタンティヌスの凱旋門ローマ建築を代表する、古代ローマの凱旋門。

 

ローマ教皇との政治的対立が発生し、これは1929年のラテラノ条約の締結まで続くこととなります

イタリアは日本と比較すると、治安は良くありません
イタリアではどこもかしこもフェラーリだらけと思っている日本人は結構多く、日本からの車好きの来訪者と高速道路を走っていると、がっかりしたようにフェラーリを見ないですねと言われることが再三あった
主要都市間を移動する場合、時間の正確さや、移動時間を短縮し途中の車高速新線の全面開通2009年12月にミラノーボローニャ·フィレンツェ間の高速新線が全通し、既に開通していたフィレンツェ·ローマーナポリ間と繋がって、通高速列車(日本で言えば新幹線)が走るようになり、鉄道のサービスが飛躍的に向上しました。ミラノ-ナポリ間を直以前は遅れることで悪名高かったイタリアの鉄道ですが、最近ではほぼ定刻通りに運行されることが多くなりました。高速列車(アルタ·ヴェロチタ、略してAVと表記される)の所要時間はローマーナポリが1時間、ローマーフィレンツェが1時間半、フィレンツェ-ボローニャが40分、ボローニャ-ミラノが1時間です。特にフィレンツェ-ミラノ間はそれまで3時間近くかかっていたのが,時間以上短縮され、大変便利になりました。また従来はFS(FerroviedelloStato=旧国鉄)のみのサービスだったのが、民営化に伴い、イタロ(Italo)と呼ばれる別会社の高速列車も導入され、ビスを競い合うようになり、サービス全般が改善されたのは我々外国人ツーリストに取ってもありがたいことです。

イタリア人は道路をゴミ捨て場と心得ているということになるお互いにサー列車の種類さて、イタリアの列車の種類について。先ほどご紹介した高速列車(AV)は赤い車両でフレッチャ·ロッサ(「赤い矢」)の愛称が付いていますが、同じ高速列車でもフレッチャ·アルジェント(「銀の矢」)と、これらより停車駅の多いフレッチャ·ビアンカ(「白い矢」と言う特急列車があって、基本的に全席指定ですので、事前に乗車券を買っておかねばなりません。価格は事前に購入すると割安になる場合が多く、ネットでも予約は可能です。以前は1等と2等しかなかったこれらの高速列車は、近年等級区分が改定され、上級クラスからエクゼキュティブ、ビジネス、プレミアム·エコノミー、エコノミーと飛行機のような等級区分となり、それぞれ値段が異なります。高速新線以外の言わば在来線を走る列車としては、IC(インターシティ)が在来線特急にあたりますが、こちらは従来通りの1等と2等のシンプルなクラス分け。

 

ヨーロッパ経由便でのアクセス方法も


イタリアは一つだ、同じ
一五世紀になるとテラモ県の章でも触れた「ナポリ王国」ができ、スペインのアラゴン王アルフォンソ五世の統治下で、キエティは一層華やかな歴史の光景に包まれていく。ここで、われらのアレッサンドロ·ヴァリニャーノの登場であるヴァリニャーノの銅像案内書を読むと、彼の没後四00年を記念して二六年に銅像が建立されたとある。私は早速「ヴァリニャーノ」に会うためにその場所に向かった。「マルチ-11通り」に「ヴァリニャーニ塔」という名前の塔があり、さらに進むと五差路の広場にぶつかった。そこも「ヴァリニャーニ広場」とあった。

ローマ人となってしまう
「ヴァリニャーノとヴァリニャーニと名前が似ているわ」そう思いながら、まるで恋人を探すような青春時代の気持ちになって、さらに歩いて行った。銅像が立つところは、現在では「ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世広場」と呼ばれ、一八七〇年のイタリア統一の立役者、初代国王ヴィットーリオ·エマヌエーレ二世の偉業を称えて「サン·ジュスティーノ大聖堂広場」からこの名に変わったキエティのメイン広場であった。だが、残念なことに広場は駐車場になっていたので、広場というイメージはなかった。車が邪魔をして、私は銅像をすぐには見つけることができなかった。あたりをぐるりと見渡すと、キエティ市が誇る「サン·ジュスティーノ大聖堂」がそびえ立っていた。

ローマ帝国がまずやったことはインフラの整備で、全ての道は

イタリアで錠前屋を営むのは結構いい商売かも知れない

ミラノ中央駅やしかし実際の理由はこの時代の宗教ユダヤ教への反逆罪でした。詳しくはアマゾンにて誰でもわかるキリスト教をご覧ください。キリスト磔刑後、彼は予言通り3日後に復活し、弟子達に全てを伝授しそして40日後に昇天します。その後イエスの言葉を語り継ぐのが、キリスト教発祥となるのです。このキリスト教布教に欠かせない人物が二人。
これは判りやすいですね。日本語の「おはよう」そのものです。乱するのは、なぜか別れ際にも「ボンジョルノ」が出て来ること。例えばお店で買物をして、帰る時に「ボンジョルノ」と言われたりします。ちょっと混どうやら単に「おはよう」とか「こんにちは」よりも深い意味があるに違いないと考えて観察を続けた結果、これは「良い一日をお過ごし下さい」、つまり米語の「ハブ·ア·ナイス·デイ」とか、オーストラリアでよく言う「グッデイ」(これは「好い日」という意味だから、文字通り「ボンジョルノ」だ)と同じ意味ではないかとの結論に至りました。

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ローマで最高の高さを誇っています
さて、午前中の「ボンジョルノ」には全く違和感がないのですが、午後になるとイタリア国内でも場所により事情が変わってきます。周囲を再び観察してみると、ミラノでは夕方近くまで(会社の終わる五時頃が目安でしょうか)「ボンジョルノ」を使いますが、例えばイタリア中部の会社に午後電話をすると「ボナセーラ」、つまり「グッド·イブニング」と言われて最初は面食らったものです。もしかすると中南部では昼休みが長いことと関係しているのかも知れませんね。場所によって、昼食後は全て「ボナセーラ」になるところ、夕食前は全て「ボンジョルノ」で押し通すところ(ミラノはその典型)など様々で、イタリアの地域色の強さをよく現しています。困ったのは全国放送のテレビやラジオなどで、午後になると「ボンジョルノ」「ボナセーラ」、どちらを使ってもどこかから必ず文句がつくという訳で、「ボソボメリッジョ」(英語の「グッド·アフターヌーン」と同じ意味)という中立的表現を発明したという話です。

 

イタリアの中心都市から見れば辺境地域だし、それぞれ複雑な歴史を経て

ローマ帝国の支配下にあったのでした
ミラノで車を持つことは、なかなか負担が大きい訳だが、一方で日本のように車庫証明などという制度はないので、購入の時の手間暇はそれほどではないし、車検も十年間はなし
この時代の中近東の人々は皆ユダヤ教を信じるユダヤ人。しかしこのユダヤ教のしきたりに矛盾を感じたキリストは、自分の信念を貫き、そしてユダヤ教ファリサイ派が押し通す立法に真っ向から対立してゆくのでした。この世で一番貴い人は皇帝ではなく、神だというのが彼の信念。そして正しい行いに、いちいち細かい立法を当てはめる必要などない!という考え。これが故にローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです。

イタリア語圏でも高速道路のパーキング·エリアのトイレがこのスタイルだったしかし実際の理由はこの時代の宗教ユダヤ教への反逆罪でした。詳しくはアマゾンにて誰でもわかるキリスト教をご覧ください。キリスト磔刑後、彼は予言通り3日後に復活し、弟子達に全てを伝授しそして40日後に昇天します。その後イエスの言葉を語り継ぐのが、キリスト教発祥となるのです。このキリスト教布教に欠かせない人物が二人。

 

ローマ語と呼ばれる


イタリア人の外見からは想像も出来ないことで、更に相手を意味するviとかlaという代名詞は必ず大文字にする習慣があるので、laと言えば定冠詞としか知らない時に格式張った手紙に接したりするとまるで訳がわからなくなる
注意が緩んだ隙に、手荷物を置き引きされてしまうと言うのは、良くあるケースです。そこにパスポートが入っていたりしたら最悪ですね。空港のロビー、駅構内や列車の中なども狙われやすい場所ですし、混雑した地下鉄車内も要注意。レストランで席に着く時や帰るとき、また食事の最中でも荷物をうっかり座席に置いておいて盗られてしまったケースもあります。ショッピングに夢中になって注意がおろそかになった時も危険です。

海外で使えるWi-Fiは必需品!パケ死とは?国内ならスマホやノートPCのパケ代は定額制ですが
自分の荷物を置いて、色々試していて気が付いたら、自分の荷物がなかったなんてこともあります。意外にコンサバなイタリア女性の服装日本の女性の服装は実は世界的に見ても極めて開放的で、欧州からやってきた人間が驚くこともしばしばです。先日来日した英国人は日本に何度も来ているのですが、それでも渋谷の路上で,”Tooshort!”と言う言葉を連発していました。もちろんスカートの丈の話ですね。イタリアでもリゾート地だとか、ミラノのファッション業界の女性などを除けば、服装のスタイルについては比較的オーソドックスと考えてよいでしょう。

ローマから約一六○キロメートル延びているこの高速道路の終点に目指すテラモ県

フィレンツェは厳格で写実的な線と空間を特徴とするルネサンス美術を花開かせた

イタリア内、そしてそして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。
今も、壁に門がそのまま埋め込まれているのがよくわかる。さて、イタリア美術の歴史の中に、ずばり”ペルージャの人“という名で呼ばれる画家がいる。ルネサンス時代に活躍したペルジーノ(一四四八s-五二三)がその人であり、本名をピエトロ·ヴァンヌッチというあだ名に反してチッタ·デッラ·ピエーヴェという他の街の出身だった。彼はフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業をつみ(同僚にボッティチェリやレオナルドらが1た)、ペルージャに拠点を置いてほどなく、その名を知られるようになる。一四八〇年頃には法王から召集をかけられて、ローマへと旅している。

お気に入りのイタリアのお土産

ヴェネツィア共和国
システィーナ礼拝堂を飾るために、イタリア全土から高名な画家が集められたのだ。ジェクトで声をかけられたという一点だけでも、当時のペルジーノの成功ぶりがしのばれる。このブロしかし現在はむしろ、ペルジーノの名前は”ラファエッロの先生としてしか一般には知られていない。それも、古めかしい様式を頑固に守る保守的で高齢の師と、進取の気鋭に富んだ天才肌の若き弟子、という対比で語られることが多い。このふたりは典型的な”出藍の誉れの例とみなされているのだ。

 

ローマがゲルマン諸民族に蹂躙されてからは

イタリアではチェルビノと呼ぶと言った名立たる高峰は何れも
イタリアで私たちが訪れることが多い
「こんな映画ができちゃったら、私のアマルフィがさらに混んじゃ?」と心の狭いことを言っている知人がいるのだがかつては「知る人ぞ知る」穴場だったアマルフィ海岸を訪れる日本人観光客の数はここ十年ほどの間に急増しており、知人の心配などもうとっくに現実のものとなっている。かなにしろ、街の公式ホームページやパンフレットに、「アマルフィを見たことがない者は、世界を見ていないに等しい(chinonhavistoAmalfi,nonhavistoilmondo)」というスティウェルによる言葉を不遜にも掲げるほど、アマルフィは自信満々なのだ。彼らの街の輝かしい歴史に。そしてその美しさにアマルフィ誕生の伝説からして、彼らの強烈な自負をよく示している。それは、英雄ヘラクレスの愛をうけた妖精アマフィが、その短い一生を終えたとき、ヘラクレスが彼女の亡骸をこの世で最も美しい場所に埋葬したというものだ。

ミラノからの電話の間い合わせに確実に答えてくれると言うのが、また感激である’来ると専らこの種の買物そして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。

 

ローマ市庁舎などがある丘に作られた広場です


ラクイラの駅は、高台に位置する旧市街の麓にある
その後、ある時を境に呼び名は「ナカタ」にかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ(教皇選出会議)も五度ほどペルージャで開催されている。

イタリア語を使っているから、さぞかしうまくなったと思われては汗顔の至りで、半分以上は英語で済んでしまうので、どうも中途半端になっていけない
ペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。たとえばエトルリア時代の前11世紀頃に建てられたマルツィア門は、一五四0年にパオリーナ城塞が造られた際にその一部として取り込まれた。

ミラノに来てみたら、東京·大阪からのノンストップ直行便が週に十便以上も飛んでいる

ローマの軍艦を焼き払うなどして抵抗したが、街はついに陥落

ミラノの町ではどこから何の花粉が飛んで来ても不思議ではない命が助かったのは息子のおかげなの。でも、家があるのにその家に帰れないのは悔しいわ。でもね、不幸というものは誰のせいでもないのよ。誰かのせいにしたところで、人は救われないの。天災を憎み、天を恨んだところで、天災はなくならないの。
他の都市はおしなべて数千人規模、多くても11万程だった。その一方で、地中海にはギリシャ人による植民都市が増え続けていった。この全域を、”大ギリシャ”と総称する(後にローマ人は、イタリア南部とシチリア島に作られた植民都市群だけをもって”マグナ·グラエキア〈大ギリシャ),と呼んでいる)。シラクーザはアグリジェントと並んで、シチリア島の代表的なギリシャ系植民都市となった。アテネとスパルタが盟主の座を争った前五世紀のペロポネソス戦争では、スパルタ側についてアテネ勢力を島から駆逐。

買い忘れた時でも大丈夫、オーストラリアのお土産

ローマ人と日本人との共通点とはなんなのでしょうか?まずはお風呂好き、温泉好き
続く前四世紀には、シチリア島の全域をほぼ従えるに至った。このとき、シラクーザの人口は五万を突破。その後、アレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)によって建設されたアレキサンドリアなどのヘレニズム諸都市の登場によって抜かれる(エジプトのアレキサンドリアはなんと五0万人を突破する)まで、シラクーザは大ギリシャ時代の地中海における最大の都市であり続しかし、北アフリカで勢力を増したカルタゴが海を渡ってシチリア島へ侵入。島は、ローマとカルタゴの間でその後断続的に続けられる戦いにおいて、常に主戦場となった。シラクーザにはその間、軍人あがりで実質的な君主となったディオニュシオスなど、多くの英雄が現れた。

 

フィレンツェの庶民的な店では半分以下の5ユーロなんてこともあります

ミラノ市内に近いリナーテ空港から乗車すると特別料金四千リラが自動的に追加され、更に深夜は00リラ、日曜日は00リラと言った具合にメーター以外の追加料金がかかる場合が多い
イタリアでは小学校五年間、中学校三年間が義務教育で、中学卒業生の多くは高校に進学するまでは余り日本と変わりはないが但し
あの日、夜中の四時頃に息子がすぐに車で迎えに来てくれてね。私と夫を車に押し込むようにして家を立ち去ったの。車が発車したとき、ドカーンという大きな音がして後ろを振り向いたら道路がぱっくり割れ大きな穴ができたのよ。一分でも遅かったらこの世にはもういなかったわ。だって、後ろの車はその大きな穴に落ちてしまったのだから。

イタリア王家は全員国外追放され命が助かったのは息子のおかげなの。でも、家があるのにその家に帰れないのは悔しいわ。でもね、不幸というものは誰のせいでもないのよ。誰かのせいにしたところで、人は救われないの。天災を憎み、天を恨んだところで、天災はなくならないの。

 

イタリア語会話にも余り出ていないし、テレビ·ラジオ以外の生身の人間で喋っているのを聞いたのは一人だけ


ローマの7つの丘のひとつに数えられるカピトリーニに建つ美術館
それぞれの会社が展開しているサービス内容を見てみると、D社とA社の海外パケット定額はおよそ24.4MBまでの通信料金が1980円。およそ24.4MBを超えると2980円になり、これが最大の料金になります。それに対してS社の海外パケット定額は、およそ25MBまでの通信料金が1980円。およそ25MBを超えると2980円になります。通信できる容量にほんの少しだけ差はありますが、3社とも料金は同じです。

ローマ帝国には西ゴート族が攻め入り占領
しかしここで注意したいことがあります。先に挙げた料金は1日あたりに支払わなければならない料金であるということ。たとえばS社で30MBの通信を2日行ったら、2980円×2日で5960円ということになります。この金額をどう捉えるかは、と感じる人もいるでしょう。その人次第でしょう。

ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えています

ミラノからの高速道路がルガノ湖を渡ってすぐにトンネルで通り抜ける!もう一つは市内東側の湖畔に聳えるモンテ·ブレ

イタリア人は元気が良い(実際には同じイタリアで一九三0年代に平均時速二00キロという、当時としては驚異的なスピードで走らせたETR一100という特急電車もあり、この技術がセッテベロにつながっているのだが。日本でも他の欧州諸国でもまだ電化区間がそれ程多くなかったこともあろうが、長距離の特急列車は電気機関車や蒸気機関車が客車を引っ張るのが常識で、現在でも欧州諸国の特急列車は機関車が牽引するのが普通だ。特にまだ電気系統の技術に信頼性が低かった!九五○年代に全車両電車の特急を看板列車として走らせるのは大いなる賭であったろう(まさかそれでトランプの役の名前を付けた訳ではあるまいが)。山の多い日本では動力が各車両に着いている電車の方が加減速に優れているので、現在では電化区間を走る特急は殆ど電車特急になってしまったが、イタリアも日本同様の山国で、特にミラノ·ローマ間は最長十八·五キロのトンネルを含むアペニン山脈越えの難所のために動力分散型の電車特急を開発高速鉄道への道を開いた訳で、したのであろう。この特急がきっかけとなって、世界中で特急電車の開発が進み、日本が誇る新幹線の生みの親とも言えるのである。
シーザーのエジプト滞在は9ヶ月におよぶのでした。そしてなんと二人の間には子供が誕生します。カエサリオンと命名。その美しさに一目惚れするのでした。紀元前46年、やっとローマに戻り、独裁官(ディクタトール)に命ぜられ、それも当初の任期10年が終身にかわり、文字通りローマの最高権力者の座に上るのでした。

情熱の国スペインのお土産と言えばこちら

ミラノの街並み撃されたり、更にはフランス、スペイン、オーストリアなどに支配される時代が19世紀半ばまで続きました
それでも各地の反乱を鎮めるために各国を飛び回るシーザー。紀元前45年やっとローマに凱旋し、こんどこそはローマに居座ろうとなんと最愛の女性クレオパトラとカエサリオンをつれてやってきたのでした。ローマにはもちろん正妻がいます。複数の愛人はシーザーだけのことではなく、当時のローマの支配階級の常ではありましたが、その愛人が外国の女王となると話は別です。なんとこのクレオパトラの動向が政敵の怒りを買っていたのでした。

 

イタリアでは地域経済の発展にともなって、都市周辺部コンタードにある農場を、都市生活者が遠隔経営する形態が広まっていた

ミラノのゴミの引き取りを拒否すると言う事態にまでこじれたこと
イタリアも国民の期待を担ったサッカーは予選落ち、男子バレーボールは宿敵オランダと決勝で対戦し、かろうじて銀メダルを取ったものの、得意の筈の水球も銅メダルとチームスポーツは今一つ不振
日本では小田急と名鉄のロマンスカーがそのデザインを引き継いでいると言えば、「セッテベロ」を知らなくともそのスタイルの想像がつく人が多いであろう。残念ながら私はこの特急に乗ったことがないので、全社一等という車内を直接見たことがないが、写真やフィルムで見る限りゆったりとした豪華なデザインである。アイボリーと緑の車体の側面には「セッテベロ」の愛称の元となったトランプのカード七枚が描かれている。まさに、この特急は当時のイタリア国鉄の切り札だった訳だ。もう1つこの特急がユニークだったことは世界でも最も初期の長距離電車特急であったことである。

ローマだけの特殊な現象だとか(実際には同じイタリアで一九三0年代に平均時速二00キロという、当時としては驚異的なスピードで走らせたETR一100という特急電車もあり、この技術がセッテベロにつながっているのだが。日本でも他の欧州諸国でもまだ電化区間がそれ程多くなかったこともあろうが、長距離の特急列車は電気機関車や蒸気機関車が客車を引っ張るのが常識で、現在でも欧州諸国の特急列車は機関車が牽引するのが普通だ。特にまだ電気系統の技術に信頼性が低かった!九五○年代に全車両電車の特急を看板列車として走らせるのは大いなる賭であったろう(まさかそれでトランプの役の名前を付けた訳ではあるまいが)。山の多い日本では動力が各車両に着いている電車の方が加減速に優れているので、現在では電化区間を走る特急は殆ど電車特急になってしまったが、イタリアも日本同様の山国で、特にミラノ·ローマ間は最長十八·五キロのトンネルを含むアペニン山脈越えの難所のために動力分散型の電車特急を開発高速鉄道への道を開いた訳で、したのであろう。この特急がきっかけとなって、世界中で特急電車の開発が進み、日本が誇る新幹線の生みの親とも言えるのである。

 

イタリアの三分の一を支配するドイツ人の神聖


フィレンツェに1年間住んだときのことを思い出した
聖ペトロキリストの弟子であった聖ペトロは、このローマ帝国の中心であるローマへ、キリスト教布教のために赴きます。しかしもちろんのこと、迫害されない訳がありません。その理由はとても明白。ローマ帝国では皇帝が番でなくてはいけません、しかし、キリスト教は神が番というではありませんか。張りつけの際に、イエスと同じように十字架に張りつけられるのはめっそうもないと、逆さ十字を希望、そして殉教。

イタリア映画のワンシーンの中に自分がいるようで、不思議な錯覚にとらわれた
その遺体があるところが、そう、今のバチカン市国、サンピエトロ(セイントペトロ、聖ペトロ)大聖堂なのです。それが故に、ローマの中心に、ローマ帝国が迫害してきたキリスト教総本山、バチカン市国が存在するのです。そして彼はイエスより、天国に昇るための鍵を預けられた人なので、彼の象徴(アトリビュート)は鍵。そして下記の写真をご覧ください。この大聖堂の前に広がるサンピエトロ広場の形は鍵穴の形をしているのです…聖パウロ彼は実はクリスチャンではありませんでした。

イタリア語を通じて徹底的にやった方が効果があるのは間違いないよう

ローマには同じ様なイメージを持っているようだある

ローマのスペイン広場を思い起こさせるなだらかに広がる大階段最初にこの海岸に陣地を築いたのは、北アフリカに栄えたカルタゴの人々である。彼らは地中海全域に植民都市を建設して大ギリシャ時代を迎えていたギリシャ諸都市に対抗して、地中海の北上を試みた。ギリシャ諸都市の代表がシラクーザであれば、パレルモはカルタゴの砦だった。そして地中海交易がほとんど欧州における貿易のすべてであった長い時代その中央に位置するシチリア島は必然的に、さまざまな民族たちによる触手の危険にさらされる運命にあった。ポエニ戦争によるカルタゴの衰退後、パレルモのあるじはローマにとってかわられた。
到着ギリギリまで番線が案内されないことも多いので、その時はこうした案内板の近くでひたすら待つしかありません。多いので、手荷物には常に注意し、貴重は絶対に手元から離さないように気をつけましょう。その際に置き引きなどの被害に遭う事が出発番線がわかったら、ホームに向かいます。気を付けなければいけないのは、以前はイタリアの駅には日本のような改札口がなかったのですが、2015年春からミラノ中央駅には新たに改札ゲートが設置され、乗車券を持っていないとホームに入ることが出来なくなりました。フィレンツェやローマでも長距離高速列車のホーム入口で係員が乗車券をチェックするようになったようですが、これが他の駅にも広がるのかどうかは定かではありません。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

イタリア人が他国民と比べても子どもに関心を示すようになったのかも知れない
改札口のない多くの駅では乗車券がなくてもホームに入れるし、列車にも乗れてしまうのですが、座席指定のない乗車券の場合、駅で入場する際に必ずプラットホームの端にある改札機(写真参照)でスタンプを押さなければなりません。これを押し忘れると検札で罰金を取られることもあるので、ご注意ください。なおネットで乗車券を予約した場合には、この改札機を使う必要はありません。ホームの天井にはモニターが設置されていて号車番号が示されているので、例えば5号車なら5の表示のモニター付近で待機しましょう。始発駅ならそのまま乗リ込んでしまえば良いのですが、途中駅の場合は降りる人が終わってから乗り込みます。

 

ヨーロッパの味覚に少し飽きたら、中華でひと息つくのもいいもしれません

ラクイラで祀られているのは、一四四四年、六三歳の時に
イタリアでは南北の経済格差が非常に大きく、国内での南北問題を抱えていることもあって、南北の対抗意識は激しく、北の人間が南部の人間は非効率で働かないと非難すれば、南の人間は北部は純粋の
雄大さと壮麗さにおいて、ここの建築物と比肩するものはなく、優美さにおいてここの噴水や庭園に勝るものなどありはしない。(アルベール·ジューヴァン·ド·ロシュフォールによる一六七二年の旅行記、筆者訳)一七世紀のパレルモを旅したフランスの碩学による、された観光客はとまどいを禁じえない。この最大限の賛辞を前に、今日のパレルモの中央駅広場で放り出いつ動くとも知れぬ車の列は、何の改善にもならぬことを知りながら、あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける。消えかかった横断歩道の上を、重いスーツケースを押しながら歩くあなたの進行方向に、信号など一切無視した二人乗りのスクーターが白煙をあげながら突っ込んでくる道端の手入れの悪い芝生の上を、無数の煙草の吸殻やビニール袋が、ハトの羽とともに舞っている。ここが、かつて地中海に覇をとなえたシチリア王国の都だったとは......。

ローマ郊外のアウレリア地区に展開している、ブルガリのアウトレットショップです最初にこの海岸に陣地を築いたのは、北アフリカに栄えたカルタゴの人々である。彼らは地中海全域に植民都市を建設して大ギリシャ時代を迎えていたギリシャ諸都市に対抗して、地中海の北上を試みた。ギリシャ諸都市の代表がシラクーザであれば、パレルモはカルタゴの砦だった。そして地中海交易がほとんど欧州における貿易のすべてであった長い時代その中央に位置するシチリア島は必然的に、さまざまな民族たちによる触手の危険にさらされる運命にあった。ポエニ戦争によるカルタゴの衰退後、パレルモのあるじはローマにとってかわられた。

 

イタリア全土から高名な画家が集められた


イタリアを席巻したノルマン人たち、なかでもロベルト·グイスカルドロベルト·ダルタヴィッラ·イル·グイスカルド、日本ではフランス語読みのロベール·ギスカールの名で知られているの年代記を書いた人
そのローマがゲルマン諸民族に蹂躙されてからは、パレルモも蛮族の属領となった。その後、皇帝領の回復をはかったビザンチン(東ローマ帝国)の庇護のもとで数世紀をすごしたが、八三一年、パレルモはアラブ人というあらたな主人を迎えた。しかし、パレルモが主要な文化都市として名をあげたのは、実は彼らがここに首都機能を置いてからのことである。彼らは寛容な宗教政策をとり商業と農業を発展させ、三0万人を超えるイタリア1の大都市に育てたところで、一〇七二年、領主の位をノルマン人たちに奪われたじゅうりんはるか北フランスからやってきたヴァイキングの末裔たちは、この南の地において、異なる民族·宗教間の対立を抑えた宥和政策をとる。そして一○九五年、大いなる野望を持ったロゲリウス二世(イタリア語読みでルッジェーロ、チェファルーの項で既出)が誕生した。

ミラノにあるレオナルドの傑作最後の晩餐はこの時代に描かれたものですし、ドゥオモ建設のための石材を運ぶための運河開削は彼の設計になるもので、今でも
彼は新しい官僚制度を敷き、アラブ人やギリシャ人を登用してその才能を生かし、類まれなる外交能力と軍の統率力により、シチリア全土のみならず、イタリア半島の南部をも手に入れた。彼は神聖ローマ皇帝の侵入を撃退し、ローマ法王の介入をしりぞけ、北アフリカ沿岸一帯を支配下に入れ、果てはビザンチン帝国にまで軍を送って領土拡張を試みた。彼の果てしなき野心を支えた王国の都としての時代、そして名君フリードリヒ(フェデリーコ)二世の治世下で、パレルモは押しも押されもせぬ一大文化都市として繁栄を謳歌した。たぐいしかしその後、パレルモのみならずシチリア全域を、不寛容の時代が襲う。この地を手に入れたフランスのアンジュ1家は、ナポリへ遷都し、その後とってかわったスペインとともに、イスラム社会を島から追放し、その文化的痕跡を消し去った。