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ヨーロッパ各地からたくさんの客が訪れるリゾート地だ

ローマ人の戦いだったことをあらためて学びなおした

さきほど一緒に中に入ったイギリス人カップルは、人数を数えていた。このフレスコ画の前に立ち、長老たちの回文とフレスコ画に込められた謎私はゆっくりと出口に向かった。教会内の柔らかい光に目が慣れていたので外の光が眩しかった。思い切り深呼吸をしてから、もう一度ファサードを眺めた。そこには、次のように端正でみごとな文字列が逆さまに輝いていた。この辺り特有の丘を越えて近道をしたこと

女性の死因の第二位を産褥死が占めていた

「SATORAREPOTENETOPERAROTAS左右どちらから読んでも、また上下どちから読んでも、また逆さまに読んでもAREPOTENETOPERAROTAS」と読めるのだ。「SATOR私がじっとその壁を見ていると、門番の老人が近づいてきて「この回文と同じ文句がイタリアには幾つもあるんだよ。シエナの大聖堂やポンペイの近くのへルクラネウムの遺跡とかにね。イギリスのサイレンセスターやシリアのドゥラ·エウロポス遺跡にもね……」老人は、この回文には謎が多く、研究されてはいるが決定的な意味はまだわかっていないのだと、まるでガイドのように教えてくれた。この言葉の意味は、「アレポという農民が馬を曳いて農地を耕し仕事をする」となる。


薬局には良くお世話になったが
薬局には良くお世話になったが

日本人にとって中華料理とならんで最も親しみやすい料理であるのは間違いない

キリストが誕生した場所はこの修道院のハイライトはこの回廊だった。中庭はバラが咲き誇り、パームの木が端正に植えられ、回廊の天井を見上げるとテラコッタの世界であった。ここでのんびり青空を見ながらベンチで本を読みたかったが、まだまだ先がある旅なので、次の町、ランチャーノに向かうことにした。アブルッツォ州の海岸沿いの町を巡ってきたが、海は潮風と磯の香りがするものと思っていたのに、アドリア海はただただ澄み切った水の匂いしかしなかった。そして、無色であるはずの水が、限りなく多彩であった。イタリアで盗難に遭う日本人は数多くアドリア海は人間の五感に訴える場であった。チャーノ「トロイの子孫が住む町」アドリア海から内陸に10分ほど走った場所にランチャーノの町がある。町に着いたのがお昼時であったこともあり、旧市街は静まりかえっていた。「この静けさはアブルッツォらしい」と思った。観光地化されず、町の人びとのペースで動いているからだ。

イタリア経済に過度な負担となり

その後ローマ人(ラテン人)たちが街を受け継いでさらに発展させた街のシンボルとなっている”ギリシャ劇場“も、現在私たちが目にしている姿は、実際にはローマ人たちがほとんど全面的に手を加えたあとの状態である。ローマ時代には、ギリシャ悲喜劇のかわりに、コロッセオよろしく血で血をあらう剣闘士同士の殺戮ショーが好まれた。そのため、演出用の”せり出し“を付けるべく、オルケストラ(平土間)中央に地ド溝が掘られている。さつりくこのギリシャ劇場は、観客席の最大直径で100メートルを越えるほどの大きさがあり、シラクーザにあるものに次いでシチリア第二の規模を誇っている。そして保存状態の良さでは、おそらく他の追随を許さない。


フィレンツェです
フィレンツェです

そのあとを息子のロレンツォが継いだ

やはりローマ時代に加えられた舞台正面壁(スカエナエ·フロンス)もかなり状態良く残っており、往時の威容を想像させる。半円形の観客席に腰をおろすと、舞台のはるか向こうの左手には青い海がひろがり、右手にはエトナ26端正な姿が目に入る。富士山と大きさも形もよく似たエトナ山は、古くから噴火記録が残されている活火山であり、ほとんど常に噴煙をあげている。ここ数十年の間だけでも何度か噴火を繰り返しており、かつて劇場に座っていた観客たちも、遠くエトナ山の山肌を真っ赤な溶岩が流れ落ちていく様を見ていたに違いない。そして、その上に広がる真っ青な空を、白い雲がかなりの速さで泳いでいたことだろう。ペルージャの画壇を支配していた

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イタリアの事なので

ローマ軍により死に追いやられるのでした

イタリアでは売っておらず他の都市はおしなべて数千人規模、多くても11万程だった。その一方で、地中海にはギリシャ人による植民都市が増え続けていった。この全域を、”大ギリシャ”と総称する(後にローマ人は、イタリア南部とシチリア島に作られた植民都市群だけをもって”マグナ·グラエキア〈大ギリシャ),と呼んでいる)。シラクーザはアグリジェントと並んで、シチリア島の代表的なギリシャ系植民都市となった。アテネとスパルタが盟主の座を争った前五世紀のペロポネソス戦争では、スパルタ側についてアテネ勢力を島から駆逐。ローマのピンチョの丘にあるあの丈の高いミラノーボローニャ·

有力な四人の将軍がよくわからぬ嫌疑をかけられて処刑されていた

水平の屋根をもつファサドを見たのもこれが初めて

続く前四世紀には、シチリア島の全域をほぼ従えるに至った。このとき、シラクーザの人口は五万を突破。その後、アレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)によって建設されたアレキサンドリアなどのヘレニズム諸都市の登場によって抜かれる(エジプトのアレキサンドリアはなんと五0万人を突破する)まで、シラクーザは大ギリシャ時代の地中海における最大の都市であり続しかし、北アフリカで勢力を増したカルタゴが海を渡ってシチリア島へ侵入。島は、ローマとカルタゴの間でその後断続的に続けられる戦いにおいて、常に主戦場となった。シラクーザにはその間、軍人あがりで実質的な君主となったディオニュシオスなど、多くの英雄が現れた。

ローマ帝国崩壊後

あの日、夜中の四時頃に息子がすぐに車で迎えに来てくれてね。私と夫を車に押し込むようにして家を立ち去ったの。車が発車したとき、ドカーンという大きな音がして後ろを振り向いたら道路がぱっくり割れ大きな穴ができたのよ。一分でも遅かったらこの世にはもういなかったわ。だって、後ろの車はその大きな穴に落ちてしまったのだから。

イタリアはフィレンツェ共和国

命が助かったのは息子のおかげなの。でも、家があるのにその家に帰れないのは悔しいわ。でもね、不幸というものは誰のせいでもないのよ。誰かのせいにしたところで、人は救われないの。天災を憎み、天を恨んだところで、天災はなくならないの。
イタリアとは言い難い

ミラノでも長友選手が活躍しています

それぞれの会社が展開しているサービス内容を見てみると、D社とA社の海外パケット定額はおよそ24.4MBまでの通信料金が1980円。およそ24.4MBを超えると2980円になり、これが最大の料金になります。それに対してS社の海外パケット定額は、およそ25MBまでの通信料金が1980円。およそ25MBを超えると2980円になります。通信できる容量にほんの少しだけ差はありますが、3社とも料金は同じです。

ローマ帝国崩壊後も国教として存続するキリスト教

しかしここで注意したいことがあります。先に挙げた料金は1日あたりに支払わなければならない料金であるということ。たとえばS社で30MBの通信を2日行ったら、2980円×2日で5960円ということになります。この金額をどう捉えるかは、と感じる人もいるでしょう。その人次第でしょう。

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ヨーロッパは

料金は高いと言うのが一般的なところです

日本人はすぐビールを頼みたくなるのですが、イタリアではピッツェリアやバール以外でビールを頼むことは余りありません。この質問の真意は「ワインと水はどうするの?」と言うことで、もしお酒が飲めないなら、堂々と水(ミネラル·ウォーター-アックア·ミネラーレ)を頼みましょう。その際にガス入り(ガッサータまたはフリザンテ)か、ガスなし(ナトゥラーレ)なのか、はっきりすることです。ワインについてはよく判らなければ、ハウスワインを頼んでおけば間違いはありません。メインが肉なら赤、魚なら白は基本ですね。

さて、ここで注意する点があります。日本では基本的に前菜から主菜にあたる料理まで、ほぼ同時並行的に出て来るのが特徴ですが、イタリア料理は単線的で、一つの段階が終われば次に進むという具合(余談ですが、イタリア人の仕事のやり方もそうです)。従って、例えば数人のグループで、一人だけ前菜をさっさと食べ終わってしまったり、逆にまだ食べ終わってなかったりすると、基本的には次の料理と進めないので要注意です(お酒を飲む方がワインばかり飲んで、料理に手を付けないとこう言う現象が起こります)。CHIANTICLANSiroORMANNもう一つ注意しなければいけないのは、ワインは基本的に料理に付随するものだということです。主役はあくまで料理なので、料理は手を抜いてワインだけは飛び切り高級と言う飲み方はイタリアでは邪道です。

  • 地中海沿岸のほとんどの世界を征服したこのアウグストゥス統治時代に
  • ラクイラのサンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂で見たあの悲しい姿と同じ
  • フィレンツェと覇権を争った

ヴェネツィアローマ帝国

フィレンツェのメディチ家はフランスの法王側を応援していた医師からもらった処方箋には三種類の薬がいてあったのだが、薬局のお兄さんは二種類しか薬をくれない「もう一つは?」と聞いたら、これはリポーザだから良く眠りなさいと言うことだと言われてしまった。確かに殴り書きの処方箋を目を凝らして見るとリポーザと読めなくはない。辞書を引いてみたら休息のこと。確かに睡眠は良薬の一つには違いがないのだが医者も知り合いを通じて行くと全然取り扱いが違うのもコネ社会のイタリアらしいところ。家内が妊娠したので、某病院の院長先生から別の病院の先生に紹介され、約束の時間に病院に行ったところ、待合室で待たされもせずに、わざわざこの先生(プロフェッソーレつまり教授である)が迎えに出てきてくれたのにはびっくりした。

そう一筋縄ではゆかないのがそれにしても、紹介をしてくれた院長先生は産婦人科ではイタリアで最高権威の一人だそうだが、自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして、別に個人で診療所は持っているし、別の病院でも週に一日は診察しているという超多忙ぶり。このほか医者向けの専門書も書いているとのことで、一体どこからそんな時間が出てくるのだろうか。偉い先生の割には偉ぶったところがないのは、国民性の違いかそれとも医者もサービス業と心得ているせいなのかは良く判らない医療水準といった点では日本とイタリアの差は感じないが、大きな違いを感じたのは診察を受けた際の情報は全て患者に帰属すると言う点である。例えば、家内が受けた超音波検査や血液検査のデタは全て分析結果のコメントと共に渡してくれる。従って、検査を受けた病院以外でもこの資料を見せて医師の診療を受けることが出来る訳である。

ローマ近郊のカラカラ帝浴場や石畳のアッピア街道

一○七五年には教皇位の優位と不可侵、そして世俗権力による一切の聖職任免の禁止を公布する。聖職叙任権闘争の堂々たる宣戦布告である。怒った神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は独自に宗教会議を開催し、グレゴリウス七世の廃位を一方的に宣亨る。「ローマに、教皇を連れて皇帝がやって来るだろう。なぜならそこにいるのは教皇ではなく、狼だからだ」。

イタリアのサッカーはすっかり馴染み深くなったようだ

ローマ建築を代表するこうした侮辱がなされている間、聖庁長官は怒りのあまり、自らの剣で特使を殺したい衝動に駆られた。もし主がおしとどめていなければ、殺していたかもしれない。(ドニゾーネ、『カノッサのマティルデの生涯』、一二世紀、パオロ·ゴリネッリ編による一九八四年ジャカブック版より、筆者訳)そこで教皇は伝家の宝刀を抜く。皇帝を破門したのである。「破門」は、当時のキリスト教世界では死に等しい。

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イタリアでいまも国民的な人気を誇る聖女

ヴェネツィアに次ぐヴェネト州第二の都市で

「君は法王庁の裁判官になる資質をもっている。だが、裁判官は聖職者からしかなれない。君のもっている法学の学位だけでは足りない。神学の学位をパドヴァ大学に戻ってとってきなさい」「わかりました。聖職者になってまたローマに戻ってまいります」ここで言う神学の学位だが、イメージとして「神学と論理学」だと思いがちだが、実は、哲学、数学、物理学、天文学、形而上学を含む幅の広い学問であった。これは小麦の産地に近いことと気候が麺を乾燥させるのに適していたためだそう

ヨーロッパの宮廷祝宴で好評を博したという

神父になるためには神の存在を弁証できる能力が求められ、かつ、神が創造した自然科学を研究することが必要であった。だが、大学に再び戻ると、きまじめでいながらも情熱的なアレッサンドロは、これまで張り詰めていた糸がきれたかのように、一人の女性に恋をしてしまう。その名はフランチェスカーナ·トローナ。ダンテがベアトリーチェに一目惚れしたのと同じであった。私は、どうしてもこれが真実かどうかヴァリニャーノにそのことを聞いてみたかった。


フィレンツェの男と女として公認された
フィレンツェの男と女として公認された

イタリアでは日本人がいない場所を探すのが難しいほどで

フィレンツェに工房をもち通称ヴェロッキオ親方の弟子だった当たり前の話だが、子どもは育った環境で色々な仕草を覚える訳で、日本人の子ども達もイタリア人の子ども達と一緒にイタリアの幼稚園に行けば、イタリア的ボディーランゲージを覚えるのは当然。ミラノの日本人学校では年に一回、学習発表会と言って学芸会のような催し物があるのだが、特に小学校低学年の子たちの仕草を見ていると素直に日本的、イタリア的表現が出て来るので楽しい。普段、街中や事務所で見ていてこれまた面白いのは、電話でも同じく口八丁、手八丁が出て来ることだ。もっともイタリア人から見ると、電話に向かってしきりにお辞儀をする日本人がいるのが面白いと言うから、まあお互い様か。最近は携帯電話が増えたから街を歩いていると、向こうから片手に携帯電話、空いた手を激しく上下に振りながら歩いてくるイタリア人によく出会う。ヴェネツィアではちょっと難しいかも知れません例え電話と言えども、会話の相手に自分の意のあるところを通じさせようとすれば、手を使わねばバランスが取れない、あるいは気持ちが収まらないといったところだろうか。イタリア人は口から生まれたのではなくて、手から生まれたのかもしれない。くリにライタリアには警察官の種類がやたらに多くて戸惑ってしまう。街で良く見かけるのはカラビニエーリという憲兵で、これは津々浦々まで駐在所があって、黒地に赤い文字を浮き立たせたアルファロメオに乗っており、制服も黒字に赤とおしゃれである。大都市の駐在所の前や空港には軽機関銃を下げたカラビニエーリが立っていて物々しい。

日本の喫茶店と同じ様なものだと思っていれば間違いない

谷間だから橋を架けるのは不思議ではない。この日に出勤すると道は空いているし、取引先に電話をしても担当者が休んでいることも多く、それどころか全社休業という会社もあって、自分だけ働いているのが悪いことをしてるような気持ちになるから不思議である。しかし、考えてみれば、一年の内まるまる1カ月休んで、経済活動と生活水準を維持しているというのは大変なことだ。日本で同じようなことになったら一体どうなることだろうか。残り十一ヶ月を一所懸命に働いて結構うまく乗り切ってしまうような気もするが。


ミラノの歩道には屑入れが沢山設置され
ミラノの歩道には屑入れが沢山設置され

各方面で異民族とのいさかいが続いていた

イタリアは中に一歩入れば表とは別世界。ミラノ中心部の街も一歩建物を裏に抜けると表通りとは別世界で、鬱蒼と木の茂った緑豊かな中庭が広がり、中には孔雀やフラミンゴを飼っている所もあるとか。よく晴れた日にミラノの中心にあるドゥオモの屋上にのぼると、表通りには街路樹もないのに、建物に囲まれた中庭やビルの屋上から木々の緑が見えるのに気付く港町ジェノバに行った時のこと。険しい山が海のすぐ側まで迫っているこの港町は、日本で言え余談であるが、ば神戸か長崎に似て、ここの旧市街の裏町は狭い路地が迷路のように入り組んでおり、昼間でも日が射さない不気味なところだ。怪しげな人々があちこちに佇んでいたり、何を生業としているのかよく判らない店がそこここにある。セルビアなどが攻撃してくるのでした

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ローマだけの特殊な現象だとか

イタリア国内で売れたのは四三五台

ミラノ市内の個人商店の八十%近くが閉店するとのことだったがあらゆるヨーロッパ諸国がこのイタリア半島に魅特に、古代ローマ帝国の崩壊以降、ドイツとフランスのどちらがこのイタリアを支配するかで争いが絶えなかった。イタリアの政治は絶えず不安定で、いわば天下は実力のある者の回り持ちだった。その天下分け目の合戦が一二六八年にこの場所で起きた。それが「タリアコッツォの戦い」で、あのダンテも『神曲』の中でこの争いを活写している。イタリアの三分の一を支配するドイツ人の「神聖ローマ帝国」にフランスはずっと嫉妬していただろうし、イタリア人たちにとっては神聖ローマ帝国の皇帝であるドイツ人に恐れおののいていただろう。ミラノやトリノは比較的良くルールを守る方という話なので相手によって皆教えてくれる料金が異なるのも何だか

イタリアの果ての風景を見た思い

ローマの日記

だからこそ、一二五○年に神聖ローマ帝国を統治していた皇帝フェデリコ二世が亡くなると彼の出身であるホーエンシュタウフェン家に、もはや明日はなかったのである。次に王座を狙ったのは言うまでもなく法王と組んだフランスのアンジュ-家であった。法王庁は一気にホーエンシュタウフェン家を潰しにかかったのだ。この戦いの後、イタリアはしばらくフランスの配下となる。だが、このフランスもその後シチリアの民衆に嫌われ、一二八二年に「シチリアの晩鐘事件」と呼ばれる大事件が起きる。!

学習発表会と言って学芸会のような催し物があるのだが

さらに、我々、キリスト教徒の間では一夫一婦制ですが、日本は正妻のほかに愛人をもつ習慣がありました。私はこれに関しては間違っていると日本の女性たちに語りました。彼女たちは私の話に感銘し、洗礼を求めてきました。私のメッセージに敏感にこたえるのは男性よりも女性たちでした。日本の女性は子供の頃は父親に、結婚すると夫に、未亡人になると長男に従うという男性への三つの服従がたたき,まれます。

ヨーロッパ各地にまで届き

男性が女性を尊重したり献身的に愛したりすることは堕落だとされていました。日本人は強いグループ意識と個人が全体へ服従する意識に支えられています。私は個人を尊重することを彼らに教えたのです。布教するならば、日本人を特徴づけている多くの美徳を尊重することがとても大事なのです。たとえば人間の尊厳の自覚や、異なった階級間における互いの尊重、ホスピタリティそして人を思いやる気持ちや清潔感などがそうです」私は冷静な語り口のヴァリニャーノが好きになった。
ラクイラ県カペストラーノで見たレプリカの本物に

耐えられないほどまずい店と言うことはないでしょうが

そして舞台は再びエジプト、そしてクレオパトラへ。エリザベステーラーの映画クレオパトラ偉大な英雄ジュリアス·シーザーが暗殺されて4年、大ローマ帝国ではしばらくの平安が保たれていました。シーザーの寵愛を受け、シーザーの甥オクタビアヌスとレピドゥスらとともにローマ帝国を統治していた武人アントニウス(映画ではリチャードバートンが演じます)は、クレオパトラとの熱い恋に陥っていました。いま北アフリカにおり、エジプト女王彼は部下の信望厚く、その長けた統治力であまねく北アフリカをおさえていたのですが、本国イタリア各地では、内乱の兆しが見え始めていたのです。ローマではアントニウスの妻と弟がなんとオクタビアヌスに戦いを挑み、不運にも破れ二人は殺害されたとの報がアントニウスのもとに届きます。

使われている名前はルネッサンスの芸術家から最近の政治家までさまざまだ

そんな中、三頭政治、これに反対するポンペイの反乱という事件が起きます。アントニウスは急きょローマに戻り、3人の執政官の強固な結束をはたしてポンペイ軍を制圧するために、これによりポンペイ軍壊滅に成功。しかたなくオクタビアヌスの姉オクタビアと婚姻するのでした。平安を取り戻したローマ帝国を後に、と巨万の兵を送り込んだのです。オクタビアの手を振り切って、クレオパトラのもとに走ると、オクダビアヌスは、このアントニウスの,族に対する侮辱と背徳行為に激怒し2人の住むアレキサンドリアへこの戦いはアントニウスの完全なる敗北に終わります。

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イタリアの都市国家間に吹き荒れた対立抗争の

このアプローチの良さはスイスのチューリヒやジュネーブ

今も、壁に門がそのまま埋め込まれているのがよくわかる。さて、イタリア美術の歴史の中に、ずばり”ペルージャの人“という名で呼ばれる画家がいる。ルネサンス時代に活躍したペルジーノ(一四四八s-五二三)がその人であり、本名をピエトロ·ヴァンヌッチというあだ名に反してチッタ·デッラ·ピエーヴェという他の街の出身だった。彼はフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業をつみ(同僚にボッティチェリやレオナルドらが1た)、ペルージャに拠点を置いてほどなく、その名を知られるようになる。一四八〇年頃には法王から召集をかけられて、ローマへと旅している。

昔Wi-Fiレンタルした機器が取れてしまいシスティーナ礼拝堂を飾るために、イタリア全土から高名な画家が集められたのだ。ジェクトで声をかけられたという一点だけでも、当時のペルジーノの成功ぶりがしのばれる。このブロしかし現在はむしろ、ペルジーノの名前は”ラファエッロの先生としてしか一般には知られていない。それも、古めかしい様式を頑固に守る保守的で高齢の師と、進取の気鋭に富んだ天才肌の若き弟子、という対比で語られることが多い。このふたりは典型的な”出藍の誉れの例とみなされているのだ。

  • イタリアのパドヴァのアレーナ礼拝堂内部にある東方三博士の連作で有名なジョット
  • ヴェネツィアは激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し
  • あっという間に街を占領してしまった

ミラノのドゥオモ大聖堂の建設が始まったのは

イタリアフィレンチェで「こんな映画ができちゃったら、私のアマルフィがさらに混んじゃ?」と心の狭いことを言っている知人がいるのだがかつては「知る人ぞ知る」穴場だったアマルフィ海岸を訪れる日本人観光客の数はここ十年ほどの間に急増しており、知人の心配などもうとっくに現実のものとなっている。かなにしろ、街の公式ホームページやパンフレットに、「アマルフィを見たことがない者は、世界を見ていないに等しい(chinonhavistoAmalfi,nonhavistoilmondo)」というスティウェルによる言葉を不遜にも掲げるほど、アマルフィは自信満々なのだ。彼らの街の輝かしい歴史に。そしてその美しさにアマルフィ誕生の伝説からして、彼らの強烈な自負をよく示している。それは、英雄ヘラクレスの愛をうけた妖精アマフィが、その短い一生を終えたとき、ヘラクレスが彼女の亡骸をこの世で最も美しい場所に埋葬したというものだ。

ヴェネツィア共和国領と旧そして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。

ミラノのメルカートで1キロ千リラ七十円で買ったこともあるのだから

その後、ある時を境に呼び名は「ナカタ」にかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ(教皇選出会議)も五度ほどペルージャで開催されている。

ローマの人達は他の

ローマの浴場跡に作られた博物館ですペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。たとえばエトルリア時代の前11世紀頃に建てられたマルツィア門は、一五四0年にパオリーナ城塞が造られた際にその一部として取り込まれた。

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て他の外国語と比べると親しみやすい言語と言えよう

イタリアを往復し

ペットボトルの飲物などはキャップを外されてしまいますし、アルコール類や花火は持込み厳禁です。入場してから更に座席へと上がる通路の入口で改札があるので、チケットを入手したらなるべく早く中に入るようにしましょう。スタジアムの中に入っていくと、こすだけで鳥肌が立つほどです。まばゆい照明と共に何とも言えなぃざわめきと雰囲気が湧きあがってきます。これは筆者も大好きな瞬間で、その様子を思い起サンシーロ·スタジアムはミラン、インテルのホームなので、例えばミランの試合であれば基本的に観客はミランのサポーターです。富を求めて世界中を行き交う男たちが集う場

それは日本人が私は英語を話せませんと言うレベよりずっと下の事も多々あります

相手チームの応援団も来ていますが、ミランの応援団(青に陣取る)とは反対側の赤のコーナーに機動隊に両脇を挟まれての応援です。もしもあなたが相手チームのファンだったとしても、相手チームのマフラーやウェアは外に出さない方が無難です。ミラノのスタジアムで、サポーターによる暴力沙汰があったと言う話は幸い聞いたことがありませんが、郷に入っては郷に従えで、ミランやインテルのサポーターと共にゴールを喜び、歓声をあげて隣の人と抱き合ったり握手したりすれば、いやでもサポーターになってしまうことでしょう。もう一つのご注意。このスタジアム(他も·緒ですが)は床がコンクリートの打ちっ放しで、履き、特に女性の場合はベンチコートなどを用意した方がよいかも知れません。


渋滞が著しい所々で道をあけてもらい
渋滞が著しい所々で道をあけてもらい

ミラノのスタジアムで

された観光客はとまどいを禁じえないユーモアのセンスのあるダヴィンチは前にジョコンド氏の注文で描いたときとまったく同じポーズを今度もモナリザにとらせたとか。彼のこのユーモアを知っていたからこそ、モナリザはあんなに謎めいた微笑みを浮かべているのではないのでしょうか??第。バロック芸術とヴェネチア共和国舞台はフィレンツェからヴェネチアに移ります。最も穏やかな共和国と知られた都市ヴェネチアは、世界最強の帝国のひとつであり、政治の中心地でもありました。ヴェネチア帝国は北イタリアの国々と、東地中海の植民地を監督していたのです。イタリアの州都の中では一番高い場所に位置しているミラノ郊外の出身でしたがヴェネチアの成功の理由は商業であり、世界の商業の交差点に位置し、強力な海軍によって海上を制していたのです。極東や中国、北アフリカ、スペイン、そしてオランダからの貿易品は、すべてヴェネチアを通過するのでした。この勢いは東方への新しい海上ルートが発見され、新世界の探検が行われるようになるまで続くのでした。バロックとは、歪んだ真珠を意味するポルトガル語です。実際、バロックの建築をご覧いただいた際に、歪んだ真珠、外観の特徴としては、ねじれた柱、歪んだ真珠と語りながらご覧いただくと、本当に歪んだ真珠に見えるのがこの建築様式です。

ベローナへと向かう

スカンノの建築の素晴らしさや自然の美しさは訪れた者でなければ体感できないだろう。夏に行われる湖の花火大会や、伝統的な衣裳をまとって昔ながらの婚姻の行列を再現する「ユ·カテナッチエ」も観に訪れたい。スルモーナ「第二次世界大戦からの復興」アブルッツォ国立公園を後にして次に立ち寄ったのが周囲を緑豊かな山々で囲まれ、中世の景色を色濃く残すスルモーナという町であった。この町はちょうどアブルッツォ国立公園とマイエッラ山塊国立公園の中間に位置し、ラクイラ県にある。人口約二万七000人で、その発祥はとても古く、紀元前のローマ時代に遡る。


ローマ皇帝の権力争いの渦中にあり
ローマ皇帝の権力争いの渦中にあり

イタリア語の学校が並立している

日本でも有名な『変身物語』の作者、古代ロマの大詩人オヴィディウス生誕の地でもある。大詩人オヴィディウスとコンフェッティを生んだ町足の向くままに目抜き通り「オヴィディウス通り」を抜けると、光あふれる広場に出くわした。「九月二〇日」と名づけられたこの場所の中央に、スルモーナの市民たちが誇る大詩人オヴィディウスの銅像がすっと立っていた。そのまわりを囲んで身振り手振りでイタリア男たちが井戸端会議している光景があった。いつも思うのだが、日本とは違って外でおしゃべりする男たちの姿はイタリアではおなじみである。イタリアのお役所との付き合いも長く日本出発まで一週間という期限を控え

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イタリアを支配するかで争いが絶えなかったローマに招聘されて

この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない

羊の道1トラットゥーロ出発点の町まず、高速道路A25号線のペッシーナという町で降り、国道を走って110分ほどでアブルッツォ国立公園入口の標識が見えた。しばらく山道を上っていくと、標高一一六七メートルのラクイラ県のペスカセロリという町に着いた。人口11000人の小さな町であるが、案内書には夏はハイキング、冬はスキー客で賑わう観光地とある。ちょうどアブルッツォ国立公園の真ん中に位置しているペスカセロリは、。で述べたあの「羊の移動トランスマンツァ」と呼ばれる「トラットゥーロー羊の道」の、四つのコースのうちの出発点の一つであった。

太古の歴史を受け継ぐ羊の群れは、この町から南のプーリア州カンデーラまで至るのだ。哲学者ベネデット·クローチェの出身地町を歩くと小さな教会の前で足を止めた。その毅然とした長方形のファサードに魅せられたからだ。山岳地帯に住むということは、厳しい自然との対峙を意味する。だが、山の神様から「守られている」という印象も受ける。

  • テレビで正面ファサードは無事でしたと繰り返しレポーターが報告したあの建物
  • イタリア語が多少喋れれば
  • ローマで一番有名なのはサン·クレメンテ教会の地下にあるものだよ

ミラノに帰れる訳でもなしひたすら飛行機を待つしかやる事がない一体

コーヒーそのものを指すことになりますナポリの裏町ほどは危なくないのだろうが、これらの裏町に住む人々がどんな生活をしているのか、さすがに外国人である我々が気軽に伺い知れるところではない。十七世紀の砦がある山の上から眺めた景色は素晴らしいものがある一方、これと裏腹にどこに行っても間口の狭いレストラン、商店は沢山あるのだが、これが一歩入ると奥に延々と広がっており、豪華な内装と相俟って全くイメージが違うことはしばしばある話し。イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ。内と外を使い分ける日本人の社会と似たところがあって、ある人の説によれば、これは京都と同じだとぅことになる。イタリア人と言えば開放的ですぐ誰とでも友達になるといったイメージが日本では一般的だが、北イタリアに関しては余り当てはまらず、どちらかと言えばシャイで人見知りするようである。

ミラノ試合予定の確認これは各チームのウェブサイトで簡単に確認出来ます初対面の人間に本音を明かすようなことはまずないと考えてよいし、特に外国人に対しては、どうも慣れていないためか、結構警戒心が強いというか緊張しているような場合が良くある。丁度日本の田舎へ行った欧米人が好奇の目で見られるようなものであるもう一つ驚いたのは、イタリア人には南北を問わず結構ペシミスティックな考え方をする人が多いと言うことである(ある人に聞いたことだが、イタリア人が何人か集まると必ず出る話題が病気の話題とかで、老若男女を問わぬ現象とか)。これは我々が日本で持っていた「楽天的イメージとは正反対で、様々な外国に支配されていたという歴史経験と無縁ではなかろうと私などは想像しているのだが、仕事などで付き合っているイタリア人は我々から見ると神経質と思う位に色々なことを心配する。もっともその心配が現実になったところで、後はどうにかなるだろうと言う楽観主義が同居する二面性があり、単純な発想の我々日本人がイタリア人を理解しようとすると訳が判らなくなってしまう。親しくなってしまえば(つまり内の世界に入り込んでしまえば)、なかなかに複雑であるこれほど親切な人達も居ないのかもしれないが一九九六年のミス·イタリアにドミニカ共和国出身の黒人女性が選出されて話題になった。

常に日伊混成チームで行うのが習わしになってしまった

ヴェネト州のアドリアという町が有力だが、実際この「アトリ」の方が信憑性があると唱える歴史家も多い。この町はローマ人に征服されるまでラテン語で「アドリアADRIA」あるいは「ハドリアHADR!Aと呼ばれていたからだ。なるほど、イタリア半島の南北のちょうど中心に位置するこの町は、アドリア海からわずか一〇キロメートル内陸に入ったところにある。紀元前に港があった場所町に着いて、私が真っ先に向かったのはアドリア海が一望できる場所であった。この町の近くを流れるヴォマーノーは一直線にアドリア海へと注がれ、その先は砂浜しか見えないが、古代ギリシャや地中海沿岸各地を旅して『地理書』にまとめたストラボン(紀元前六三年から紀元1111年ごろ)によると、そこには大きな港があったという。

イタリアでは誠に異例の所

イタリアのパスタの種類は実に豊富紀元前後の話で、海底にその遺跡が残っているのだ。伝説の霧の向こうに霞んでしまった港は、アトリ専用の港だったというわけである。現在そこにはビネトという新しい町ができている。その遺跡の写真を私はこの次に行く町ビネトで見ることができた。それは後述したい。