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ミラノの日本人学校では年に一回

フィレンツェ近郊に生まれますミラノではごく普通の現象

しかし、かつては七二本もの塔がこの狭い中にひしめいていたというのだから、つくづく変わった街だ。そのとおり、この街で面白いのは、歴史上の人物たちや芸術作品よりもむしろ、街自体の姿とその歴史である古い起源を持つこの街は最初、同じエトルリア人が西隣に作った街ヴォルテッラの支配下にあった。サン·ジミニャ!がしかし長い時間をかけて、徐々にヴォルテッラの影響から脱していったのは、ローマからシエナやピサを通ってフランクへと続く通商路が、このような辺鄙な山の中をうねうねと通っていたおかげである。ここでは、旅に疲れた商人たちがしばしの休息をとった。このフランチジェーナ街道を通って、はるかイギリスまで旅したカンタベリー大司教シゲリックによる九九〇年頃の投宿記録が残っており、その中にrSceGeniane(サン·ジミニャーノ)」も投宿地のひとつとして登場する。ローマの中心地にはもう空いている土地などあまりなかったのです

イタリア杯や欧州杯

街はサフランを主力商品に徐々に経済力をつけて、ヴォルテッラに反旗を翻すようになり、一一九九年、コムーネとして実質的な独立国となった。しかしほどなくヨーロッパは、先に述べたような、法王派と皇帝派にわかれての分裂状態に突入した。半島中のあらゆるコムーネが、どちらの勢力につくかの意思表示を迫られ、サン·ジミニャーノもそのただなかに放り込まれた。トスカーナ地方の両雄であるフィレンツェとシエナは、それぞれゲルフとギベリンの領袖となった。間に挟まれた格好のサン·ジミニャーノは、はたしてどちらの勢力につけば有利なのかるうかがいつつ、城壁の内側では陰惨で執拗な勢力争いが始まった。


まだ遅くはないのでこれから気分·新新たなブランドを探し続けるつもりです
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イタリア半島の背骨とたとえるが

イタリア史のキーワードまず頭に置いておいた方がよいのがその後はしかし、ルクレツィアはフェッラーラの地で、五人の子供に恵まれた(うち1人は11歳で亡くなる)。そして!五一九年、アルフォンソとの六番目の子(通算で八人目)を産んですぐ、生まれたばかりの娘と相前後して、ルクレツィアは産褥熱で世を去る。享年三九歳。お互い少しずつ歩み寄って、最後は穏やかな愛をはぐくむようになった夫に見守られながらの最期だった。Canossaクツサーカノッリの屈辱カノッサの屈辱」という言葉を、「そういえば高校の世界史の授業で聞いたことがあるな」とご記憶の方もおられるだろう。イタリア人のコーヒータイムはおおむねわずか数秒で終わってしまいます「皇帝が教皇に赦しを乞う」事件だと漠然と説明されてはいるものの、いったいどのような出来事で、いかなる背景のもとに起きたのか。歴史上有名な事件ながら、実のところほとんど知られていないその舞台と主人公たちをご紹介したいカノッサとは,イタリアに実在する地名である。かつては「トスカーナの辺境」と呼ばれる域内にあったが、現在はエミリア·ロマーニャ州のなかにある。レッジョ·ネッレミーリアから二キロほどなので、車で行けば町からわりと近いのだが、まわりにほとんど何もないところとあって訪れる人もほとんどいない。小さな丘が続く一帯をカノッサへ向けて走っていると、があることに気がつく。

ナポリ王国が造っこの言葉を目にした瞬間に

こんな小さな町がルネッサンス時代には名君と言われるフェデリコ公を戴いて大いに栄えたというのだから実に不思議な気がする。その活力の源泉は一体どこにあったのだろうか。復活祭の休みを利用して家族でローマを訪れた。まだ、1歳の里奈は別として、皆昔訪れた事があるのだが、当時滞在中のフィレンツェからの日帰りだったため、バチカンやスペイン広場を慌ただしく回ったとの印象しか残っていない。私もミラノに来て以来、仕事でイタリア国内をあちこち飛び回っているのだが、何故かローマだけは出張で来たことがない。


ローマ帝国からやはり迫害され始めたキリスト教の信者は
ローマ帝国からやはり迫害され始めたキリスト教の信者は

イタリアに到着して一週間も経たずに送って来る

正確に言えば空港で飛行機を乗り継いだことはあるのだが北イタリアの独立を目指す北部同盟流に言えば、ミラノがイタリアの富を生み出す所ならば、ローマはそれを消費(搾取于るところと言うことになる。ミラノは商業の中心と言いながらも、周辺部には工業の生産拠点もあり、また北イタリア各地に散在する地場産業の拠点とも近い位置にあるから、これらの産地との関係も密接である(このあたりが我々の飯のタネなのだが)。それに比べるとローマは、あれだけの大都市でありながら「生産」と言う言葉から最も縁遠いように思える。イタリア国内の大企業の本社がローマに多いのは事実だが、ローマに本拠を置く大企業は殆どが国営企業(最近民営化された企業も含め)であり、民間の大手であるフィアットやオリベッティなどの本社は何れも北部のピエモンテ州にある。あとは政府機関と膨大な観光産業。イタリアらしくないと言う点では外国

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イタリアで暮らしていると段々評価基準が上がってきて

ラクイラ市長は大災害に苦しむ日本から素晴らしい贈り物をいただきうれしい

世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だったでいカいテた南た感山の,고龕高リこ特、る所るスだに距激電ょのスな峰好のに周こにのテけは離も求うな:のき丘冬辺と集だでイでのでなソがグなに場はがめかと、タはであ山ボのらィの、公あて、どリなぁる々·だ欧ソ3ぼ風園る土こちアい州バリつのに.。盛ののデ力1だ篙デのゆいてはー、出のっらまがたス迫ィ2最ラ:て強な由り丘葥がイの島方を東角縦方家のを断のにモ東オにモ見す山帰ン京てる裾つテかリンプ·も分にてジらのグ飽水古地ェ見目フンスフー·.峰イ史のことないとそ来21,と-、どるもの수がソ·-同ののあ上由,好アだれに来このルが、植はで-ブ、こ樹とにはがく図ネぇ越フと、百必沢の高モしもる、かをロるしウこアらチ!とぺのエゾ士ナ隣黍のニ城ッ鉄山イにでで?なソ塞ク道し、山都しの丹のる良眺脈市て山沢2望のでみ頂が黒あた駅奥なソらは楽いるらを多ピスれERとな頂の話言山し陰べ直こ摩1タて州をこも上真る1、めがル線ののク71、第ろのは只確難る延ガ距モ山を1る→の々モ離ン並覗ルマの冫説あラーに、3はとのでテでかホッ高,冫明るノあ砂戦意富にの日ロあい色,七テ出マと,のそメテたチこるがれ1ラ高ッ汪に山フあもる良るの宣ッせフく?·面はト、台クす白見ル平とと星い事の原のはおて中かく言u.はサルタ峰好。市る礫争味人,防内ミの中のˋ見町わスちえがずテ残るく!よる見かラ念。四ホ標:な寒でラ下に何っこえ五かな四二ル高,人にもノに爆とととる十らが千七ン四は万最で煉撃もしもこキ双らメ四は六ど全もは瓦でロたあとロ眼太-メ、三。こを標何や破マ贅るはな鏡刀ト丨モ四の尽高とタ壊ンハる東京と同じく、ミラノもゴミの処理にはほとほと手を焼いている。同じ白人社会の中でも差別を受けて辛酸をなめた人が多いからローマにおけるキリスト教以前の一神教の存在を探る鍵になるのではないか

ミラノに来た頃

ローマでも外国人が最も集まる場所となり

大都会が大量のゴミを出し、これを自分の所だけでは処理しきれずに近隣の自治体で処分するという構図も全く一緒。数年前には一向にミラノのゴミの量が減らないのに業を煮やした近隣自治体とミラノ市との間で、ゴミ処理を巡って紛争が巻き起こり、周辺の自治体がミラノのゴミの引き取りを拒否すると言う事態にまでこじれたことがある。この時は、夏の暑いさなかに町の中に黒いビニールのゴミ袋が山積みとなり、生ゴミなどは腐り始めて異様な臭気を発する有り様となった。この一件がきっかけとなったのか、それまで他の欧州諸国に比べて遅れていたゴミの分別収集がようやくミラノでも始まった。とは言え、自分が捨てるゴミを分けて別々の袋に入れて出すという作業は、イタリア人の余り得意とするところではないらしく、私が住んでいるアパートのゴミ置き場(市の収集日には管理人がまとめて道路端に出してくれる)を見ても、生ゴミはさすがに分けているが、紙とかプラスチックとかは皆ごちゃ混ぜである。

イタリアのバールはトイレの設置が義務になっているので

そして周囲の建造物をみわたせば、長辺に11か所ずつの計四か所で女性が1人ずつ描かれており、彼女たちの足もとにそれぞれEuropa,Asia,Africa,America」と大きく記してある。つまり彼女たちはそれらの大陸をあらわす擬人像で、あわせて<四大陸の寓意>という主題になる。新旧教の分裂以後、カトリック教会はプロテスタント側に奪われた失地を回復せんとばかり、全世界へと伝道事業をおしすすめていた。その運動の中心をになったのがイエズス会であり、私たち日本人にはおなじみの聖フランシスコヴィエリのように,創設メンバーたちからしてすでに,全世界の見知らぬ地まで、ヨーロッパを遠く離れての精力的な布教活動にたずさわっていたイエズス会にはそれぞれ大陸担当のようなものがあり、ザヴィエルはもちろんアジア方面のリーダーだったので、絵の中でもアジアの擬人像の上に大きく描かれている。つまりこの作品では,イエズス会が世界伝道活動を自画自賛しているのである。

鉄道のサービスが飛躍的に向上しました

描かれている四大陸が当時知られていた世界のすべてであり、オーストラリアなどはまだない。当時のヨーロッパの人々が持っていた、各大陸についての知識やイメージがわかるのが興味深いヨーロッパは豊かさをあらわすために恰幅良く、もちろん白人で馬にまたがり、世界に君臨していることを示すように地球儀を抱えている。古くから知られていたアフリカは象牙を手にし、ワニにまたがる黒人女性の姿で描かれる。アメリカはアメリカ先住民族で、虎の背に乗る最も微妙なのがアジアであり、中国人風と言えなくもない容貌の女性が、中東のラクダに乗っている。いずれの地域でも、炎で追いやられているのが未開の異教徒たちである。
イタリア語の語感が良いからで

イタリアンで使用されるオリーブオイルやパスタ

アナーニ事件で傷ついた教皇権は、次の教皇が短期間で急死した後、新たな教皇を1年近く選ぶことができず、結局、フランスの強い影響によりクレメンス5世が選出されました。フランス、ボルドーにいた新教皇はリヨンで戴冠し、貴族間の抗争が激化しているローマに行くことを避け、シチリア王のアンジュ一家領(フランスの勢力圏下でもある)であるアヴィニョン(後に教皇領)居を構えたのでした。にクレメンス5世以下のアヴィニョン教皇もフランス王の言いなりという訳ではなかったのですが、とは否めません。大量のフランス人枢機卿を任命し、テンプル騎士団の解体に同意するなど、フランス王の強い影響下にあったこ歴代のアヴィニョン教皇はフランス出身とはいえ、フランス王の強い要求に従うことは不愉快でもあり、ローマ教皇はローマに居るのが当然という考えもあったでしょう。またジャンヌダルクで有名な百年戦争によりフランス王の権力が弱まったことも寄与し、1420年、マルティヌス5世の際にローマにもどり、ローマ教皇復活となるのでした。

イタリアの町は戦災のあとも昔の通りに復元された町並みが多いから

イタリアの芸術イタリアと言えば芸術。例えば、ビザンチン様式、ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式、ロココ様式、クラシック様式などなど、、、、、、何となく聞いたことがあるなという言葉ではないでしょう実は、さて、イタリアの歴史をご理解いただくと、この芸術様式をもご理解いただくことができてしまうのです。ここからのイタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう。イタリアの芸術はやはりギリシャの真似事からはじまります。神殿をたて、柱をたて、劇場を造り、彫像を造り、そしてそれが発展して、闘技場を造り、そしてここからはキリスト教と共に芸術は発展してゆくのでした。

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その日は休日になる慣習だ

ミラノですら

シーザーのエジプト滞在は9ヶ月におよぶのでした。そしてなんと二人の間には子供が誕生します。カエサリオンと命名。その美しさに一目惚れするのでした。紀元前46年、やっとローマに戻り、独裁官(ディクタトール)に命ぜられ、それも当初の任期10年が終身にかわり、文字通りローマの最高権力者の座に上るのでした。

それでも各地の反乱を鎮めるために各国を飛び回るシーザー。紀元前45年やっとローマに凱旋し、こんどこそはローマに居座ろうとなんと最愛の女性クレオパトラとカエサリオンをつれてやってきたのでした。ローマにはもちろん正妻がいます。複数の愛人はシーザーだけのことではなく、当時のローマの支配階級の常ではありましたが、その愛人が外国の女王となると話は別です。なんとこのクレオパトラの動向が政敵の怒りを買っていたのでした。

  • 間近に頂しが見えた
  • 日本での同名の場所のイメージから
  • イタリアというと日本ではどうも泥棒のイメージがあって

ミラノは東京

イタリア語で三つの山という意味日本では小田急と名鉄のロマンスカーがそのデザインを引き継いでいると言えば、「セッテベロ」を知らなくともそのスタイルの想像がつく人が多いであろう。残念ながら私はこの特急に乗ったことがないので、全社一等という車内を直接見たことがないが、写真やフィルムで見る限りゆったりとした豪華なデザインである。アイボリーと緑の車体の側面には「セッテベロ」の愛称の元となったトランプのカード七枚が描かれている。まさに、この特急は当時のイタリア国鉄の切り札だった訳だ。もう1つこの特急がユニークだったことは世界でも最も初期の長距離電車特急であったことである。

港湾都市と呼ぶことはできないが(実際には同じイタリアで一九三0年代に平均時速二00キロという、当時としては驚異的なスピードで走らせたETR一100という特急電車もあり、この技術がセッテベロにつながっているのだが。日本でも他の欧州諸国でもまだ電化区間がそれ程多くなかったこともあろうが、長距離の特急列車は電気機関車や蒸気機関車が客車を引っ張るのが常識で、現在でも欧州諸国の特急列車は機関車が牽引するのが普通だ。特にまだ電気系統の技術に信頼性が低かった!九五○年代に全車両電車の特急を看板列車として走らせるのは大いなる賭であったろう(まさかそれでトランプの役の名前を付けた訳ではあるまいが)。山の多い日本では動力が各車両に着いている電車の方が加減速に優れているので、現在では電化区間を走る特急は殆ど電車特急になってしまったが、イタリアも日本同様の山国で、特にミラノ·ローマ間は最長十八·五キロのトンネルを含むアペニン山脈越えの難所のために動力分散型の電車特急を開発高速鉄道への道を開いた訳で、したのであろう。この特急がきっかけとなって、世界中で特急電車の開発が進み、日本が誇る新幹線の生みの親とも言えるのである。

イタリア人を問わず被害に遭っているシエナとなってはいるものの

聖ペトロキリストの弟子であった聖ペトロは、このローマ帝国の中心であるローマへ、キリスト教布教のために赴きます。しかしもちろんのこと、迫害されない訳がありません。その理由はとても明白。ローマ帝国では皇帝が番でなくてはいけません、しかし、キリスト教は神が番というではありませんか。張りつけの際に、イエスと同じように十字架に張りつけられるのはめっそうもないと、逆さ十字を希望、そして殉教。

パレルモから海岸線に沿って

ローマの凱旋門イタリアでは放送局の設立が比較的自由とのことでその遺体があるところが、そう、今のバチカン市国、サンピエトロ(セイントペトロ、聖ペトロ)大聖堂なのです。それが故に、ローマの中心に、ローマ帝国が迫害してきたキリスト教総本山、バチカン市国が存在するのです。そして彼はイエスより、天国に昇るための鍵を預けられた人なので、彼の象徴(アトリビュート)は鍵。そして下記の写真をご覧ください。この大聖堂の前に広がるサンピエトロ広場の形は鍵穴の形をしているのです…聖パウロ彼は実はクリスチャンではありませんでした。

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ローマにいる司教たちを召集して会議を開いた

イタリアに脱出し

アブルッツォ国立考古学博物館」の建物は、キエティ市の市長も務めたことのあるフェランテ·フリジェリ男爵が一八三〇年に邸宅として建てた三階建ての館であった。その館の中には、いにしえの世界が息を潜めて横たわっていた。館をぐるりと一周すると、背後に雄大なグラン·サッソ山が見えた。ヴァリニャーニ広場「天正少年使節団を送り出した宣教師」四00年以上前に、この場所で、きっと同じ景色を眺めていたにちがいないひとりの神父のことを考えながら、今、私はキエティの丘に立っている。遠くに見えるなだらかな丘は、空と海の青のなかにとけあっていた。

宣教師ヴァリニャーノその神父とは、故郷キエティを離れ、遠い日本という未知の国に向かう決断を自らに課したアレッサンドロ·ヴァリニャーノその人である青年ヴァリニャーノは、このキエティのどのあたりに住み、どのような心の持ち主だったのか。彼はなぜそれほどまでに日本人に優しかったのか。そして慈悲深かったのか。安土桃山時代にはるばるこのキエティからやってきて、命の危険を知りながら日本にキリスト教を広め、日本の歴史を変えた織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の武将たちに多大な影響を与え、さらに日本人の少年四人に夢をたくして日本で初めての外交使節団「天正少年使節団」をヨーロッパに差し向けた宣教師とは、一体何者だったのか。私は特定の宗教に思い入れがあるわけではないが、強い意志で故郷を立ち去ったヴァリニャーノが心の底にずっと住み続けていた。

  • 実に寂しい町になってしまったよとため息をもらした
  • ローマ帝国の流れを引くビザンチン帝国が北
  • ここちよいものなのでしょう

2階の階にあたる単語にも使う

それでもこれはまずいと思うような料理にはからなる「Rime(詩集)』を出版。その五年後にはソネットや手紙のたぐいを集めた『Lettere-familiariadivers(書簡集)』を刊行した。前者はマントヴァ公、後者はフランス王アンリ三世に捧げられており、ヴェロニカの交際の広さをうかがわせるしかし、華やかな暮らしぶりの反面、世間はまだまだ売春業に対して厳しいものでありつづけた。ヴェロニカ自身、何度か裁判所へ訴えられている。有力な知り合いが多かったので罰こそ受けなかったが、なかには、彼女が教会から聖水を盗み、魔法の薬を作ったというような訴えまであった。

ラクイラは七一四メートル娼婦に対するこの手の訴えは数多く、弱い立場の娼婦たちは見せしめのためにもしばしば収監された。ヴェロニカは、自分たちが置かれたこうした状況を改めようとする。『書簡集』には、娘をヴェロニカと同じ道に進ませようと相談してきた母親に宛てた手紙がある。そこでは、娘を娼婦にするのはやめなさいと、その道の成功者であるヴェロニカ本人が述べている。実際、ヴェロニカ自身六人の子をもうけ、三人を病で失ったが、残る三人はそれぞれの父親たちに後見させて、しかるべき階級の家庭に入れている。

イタリア式庭園の最高傑作として

夜のうちに四千人ものフランス人がシチリア人たちに虐殺され、残ったフランス人は命からがらイタリアを脱出した。その後はスペインのアラゴン王家に支配権が移る。人びとは生き抜いていくのだと実感させられる。いつの世も栄華と衰退を繰り返しながら皇帝派(ドイツ)か、法王派(フランス)かほろ苦いエスプレッソを飲み終わった私はバールを出た。穏やかな午後の日だまりに包まれながら、町の背後に切り立っ岩壁を眺めた。

イタリア人もいるし

後にメディチ家の手に渡ることになったあの山は今も昔も変わらぬ姿で町の動静を見てきたのだろう。そのとき、私は中学生の頃に観たシェイクスピアの映画『ロミオとジュリエット』のワンシーンを思い出した。当時の私はキャピュレット家とモンタギュー家という二つの旧家が、なぜ何百年もお互い憎み合っていたのかさっぱりわからなかった。ただ、ロミオとジュリエットが両家に認められず、引き離されるのが可哀想とだけしか理解できなかった。あやふやな知識の中でジュリエットの悲痛な叫びにただ涙していたのだった。

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ヨーロッパ各地からたくさんの客が訪れるリゾート地だ

ローマ人の戦いだったことをあらためて学びなおした

さきほど一緒に中に入ったイギリス人カップルは、人数を数えていた。このフレスコ画の前に立ち、長老たちの回文とフレスコ画に込められた謎私はゆっくりと出口に向かった。教会内の柔らかい光に目が慣れていたので外の光が眩しかった。思い切り深呼吸をしてから、もう一度ファサードを眺めた。そこには、次のように端正でみごとな文字列が逆さまに輝いていた。この辺り特有の丘を越えて近道をしたこと

女性の死因の第二位を産褥死が占めていた

「SATORAREPOTENETOPERAROTAS左右どちらから読んでも、また上下どちから読んでも、また逆さまに読んでもAREPOTENETOPERAROTAS」と読めるのだ。「SATOR私がじっとその壁を見ていると、門番の老人が近づいてきて「この回文と同じ文句がイタリアには幾つもあるんだよ。シエナの大聖堂やポンペイの近くのへルクラネウムの遺跡とかにね。イギリスのサイレンセスターやシリアのドゥラ·エウロポス遺跡にもね……」老人は、この回文には謎が多く、研究されてはいるが決定的な意味はまだわかっていないのだと、まるでガイドのように教えてくれた。この言葉の意味は、「アレポという農民が馬を曳いて農地を耕し仕事をする」となる。


薬局には良くお世話になったが
薬局には良くお世話になったが

日本人にとって中華料理とならんで最も親しみやすい料理であるのは間違いない

キリストが誕生した場所はこの修道院のハイライトはこの回廊だった。中庭はバラが咲き誇り、パームの木が端正に植えられ、回廊の天井を見上げるとテラコッタの世界であった。ここでのんびり青空を見ながらベンチで本を読みたかったが、まだまだ先がある旅なので、次の町、ランチャーノに向かうことにした。アブルッツォ州の海岸沿いの町を巡ってきたが、海は潮風と磯の香りがするものと思っていたのに、アドリア海はただただ澄み切った水の匂いしかしなかった。そして、無色であるはずの水が、限りなく多彩であった。イタリアで盗難に遭う日本人は数多くアドリア海は人間の五感に訴える場であった。チャーノ「トロイの子孫が住む町」アドリア海から内陸に10分ほど走った場所にランチャーノの町がある。町に着いたのがお昼時であったこともあり、旧市街は静まりかえっていた。「この静けさはアブルッツォらしい」と思った。観光地化されず、町の人びとのペースで動いているからだ。

イタリア経済に過度な負担となり

その後ローマ人(ラテン人)たちが街を受け継いでさらに発展させた街のシンボルとなっている”ギリシャ劇場“も、現在私たちが目にしている姿は、実際にはローマ人たちがほとんど全面的に手を加えたあとの状態である。ローマ時代には、ギリシャ悲喜劇のかわりに、コロッセオよろしく血で血をあらう剣闘士同士の殺戮ショーが好まれた。そのため、演出用の”せり出し“を付けるべく、オルケストラ(平土間)中央に地ド溝が掘られている。さつりくこのギリシャ劇場は、観客席の最大直径で100メートルを越えるほどの大きさがあり、シラクーザにあるものに次いでシチリア第二の規模を誇っている。そして保存状態の良さでは、おそらく他の追随を許さない。


フィレンツェです
フィレンツェです

そのあとを息子のロレンツォが継いだ

やはりローマ時代に加えられた舞台正面壁(スカエナエ·フロンス)もかなり状態良く残っており、往時の威容を想像させる。半円形の観客席に腰をおろすと、舞台のはるか向こうの左手には青い海がひろがり、右手にはエトナ26端正な姿が目に入る。富士山と大きさも形もよく似たエトナ山は、古くから噴火記録が残されている活火山であり、ほとんど常に噴煙をあげている。ここ数十年の間だけでも何度か噴火を繰り返しており、かつて劇場に座っていた観客たちも、遠くエトナ山の山肌を真っ赤な溶岩が流れ落ちていく様を見ていたに違いない。そして、その上に広がる真っ青な空を、白い雲がかなりの速さで泳いでいたことだろう。ペルージャの画壇を支配していた

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イタリアの事なので

ローマ軍により死に追いやられるのでした

イタリアでは売っておらず他の都市はおしなべて数千人規模、多くても11万程だった。その一方で、地中海にはギリシャ人による植民都市が増え続けていった。この全域を、”大ギリシャ”と総称する(後にローマ人は、イタリア南部とシチリア島に作られた植民都市群だけをもって”マグナ·グラエキア〈大ギリシャ),と呼んでいる)。シラクーザはアグリジェントと並んで、シチリア島の代表的なギリシャ系植民都市となった。アテネとスパルタが盟主の座を争った前五世紀のペロポネソス戦争では、スパルタ側についてアテネ勢力を島から駆逐。ローマのピンチョの丘にあるあの丈の高いミラノーボローニャ·

有力な四人の将軍がよくわからぬ嫌疑をかけられて処刑されていた

水平の屋根をもつファサドを見たのもこれが初めて

続く前四世紀には、シチリア島の全域をほぼ従えるに至った。このとき、シラクーザの人口は五万を突破。その後、アレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)によって建設されたアレキサンドリアなどのヘレニズム諸都市の登場によって抜かれる(エジプトのアレキサンドリアはなんと五0万人を突破する)まで、シラクーザは大ギリシャ時代の地中海における最大の都市であり続しかし、北アフリカで勢力を増したカルタゴが海を渡ってシチリア島へ侵入。島は、ローマとカルタゴの間でその後断続的に続けられる戦いにおいて、常に主戦場となった。シラクーザにはその間、軍人あがりで実質的な君主となったディオニュシオスなど、多くの英雄が現れた。

ローマ帝国崩壊後

あの日、夜中の四時頃に息子がすぐに車で迎えに来てくれてね。私と夫を車に押し込むようにして家を立ち去ったの。車が発車したとき、ドカーンという大きな音がして後ろを振り向いたら道路がぱっくり割れ大きな穴ができたのよ。一分でも遅かったらこの世にはもういなかったわ。だって、後ろの車はその大きな穴に落ちてしまったのだから。

イタリアはフィレンツェ共和国

命が助かったのは息子のおかげなの。でも、家があるのにその家に帰れないのは悔しいわ。でもね、不幸というものは誰のせいでもないのよ。誰かのせいにしたところで、人は救われないの。天災を憎み、天を恨んだところで、天災はなくならないの。
イタリアとは言い難い

ミラノでも長友選手が活躍しています

それぞれの会社が展開しているサービス内容を見てみると、D社とA社の海外パケット定額はおよそ24.4MBまでの通信料金が1980円。およそ24.4MBを超えると2980円になり、これが最大の料金になります。それに対してS社の海外パケット定額は、およそ25MBまでの通信料金が1980円。およそ25MBを超えると2980円になります。通信できる容量にほんの少しだけ差はありますが、3社とも料金は同じです。

ローマ帝国崩壊後も国教として存続するキリスト教

しかしここで注意したいことがあります。先に挙げた料金は1日あたりに支払わなければならない料金であるということ。たとえばS社で30MBの通信を2日行ったら、2980円×2日で5960円ということになります。この金額をどう捉えるかは、と感じる人もいるでしょう。その人次第でしょう。

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ヨーロッパは

料金は高いと言うのが一般的なところです

日本人はすぐビールを頼みたくなるのですが、イタリアではピッツェリアやバール以外でビールを頼むことは余りありません。この質問の真意は「ワインと水はどうするの?」と言うことで、もしお酒が飲めないなら、堂々と水(ミネラル·ウォーター-アックア·ミネラーレ)を頼みましょう。その際にガス入り(ガッサータまたはフリザンテ)か、ガスなし(ナトゥラーレ)なのか、はっきりすることです。ワインについてはよく判らなければ、ハウスワインを頼んでおけば間違いはありません。メインが肉なら赤、魚なら白は基本ですね。

さて、ここで注意する点があります。日本では基本的に前菜から主菜にあたる料理まで、ほぼ同時並行的に出て来るのが特徴ですが、イタリア料理は単線的で、一つの段階が終われば次に進むという具合(余談ですが、イタリア人の仕事のやり方もそうです)。従って、例えば数人のグループで、一人だけ前菜をさっさと食べ終わってしまったり、逆にまだ食べ終わってなかったりすると、基本的には次の料理と進めないので要注意です(お酒を飲む方がワインばかり飲んで、料理に手を付けないとこう言う現象が起こります)。CHIANTICLANSiroORMANNもう一つ注意しなければいけないのは、ワインは基本的に料理に付随するものだということです。主役はあくまで料理なので、料理は手を抜いてワインだけは飛び切り高級と言う飲み方はイタリアでは邪道です。

  • 地中海沿岸のほとんどの世界を征服したこのアウグストゥス統治時代に
  • ラクイラのサンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂で見たあの悲しい姿と同じ
  • フィレンツェと覇権を争った

ヴェネツィアローマ帝国

フィレンツェのメディチ家はフランスの法王側を応援していた医師からもらった処方箋には三種類の薬がいてあったのだが、薬局のお兄さんは二種類しか薬をくれない「もう一つは?」と聞いたら、これはリポーザだから良く眠りなさいと言うことだと言われてしまった。確かに殴り書きの処方箋を目を凝らして見るとリポーザと読めなくはない。辞書を引いてみたら休息のこと。確かに睡眠は良薬の一つには違いがないのだが医者も知り合いを通じて行くと全然取り扱いが違うのもコネ社会のイタリアらしいところ。家内が妊娠したので、某病院の院長先生から別の病院の先生に紹介され、約束の時間に病院に行ったところ、待合室で待たされもせずに、わざわざこの先生(プロフェッソーレつまり教授である)が迎えに出てきてくれたのにはびっくりした。

そう一筋縄ではゆかないのがそれにしても、紹介をしてくれた院長先生は産婦人科ではイタリアで最高権威の一人だそうだが、自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして、別に個人で診療所は持っているし、別の病院でも週に一日は診察しているという超多忙ぶり。このほか医者向けの専門書も書いているとのことで、一体どこからそんな時間が出てくるのだろうか。偉い先生の割には偉ぶったところがないのは、国民性の違いかそれとも医者もサービス業と心得ているせいなのかは良く判らない医療水準といった点では日本とイタリアの差は感じないが、大きな違いを感じたのは診察を受けた際の情報は全て患者に帰属すると言う点である。例えば、家内が受けた超音波検査や血液検査のデタは全て分析結果のコメントと共に渡してくれる。従って、検査を受けた病院以外でもこの資料を見せて医師の診療を受けることが出来る訳である。

ローマ近郊のカラカラ帝浴場や石畳のアッピア街道

一○七五年には教皇位の優位と不可侵、そして世俗権力による一切の聖職任免の禁止を公布する。聖職叙任権闘争の堂々たる宣戦布告である。怒った神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は独自に宗教会議を開催し、グレゴリウス七世の廃位を一方的に宣亨る。「ローマに、教皇を連れて皇帝がやって来るだろう。なぜならそこにいるのは教皇ではなく、狼だからだ」。

イタリアのサッカーはすっかり馴染み深くなったようだ

ローマ建築を代表するこうした侮辱がなされている間、聖庁長官は怒りのあまり、自らの剣で特使を殺したい衝動に駆られた。もし主がおしとどめていなければ、殺していたかもしれない。(ドニゾーネ、『カノッサのマティルデの生涯』、一二世紀、パオロ·ゴリネッリ編による一九八四年ジャカブック版より、筆者訳)そこで教皇は伝家の宝刀を抜く。皇帝を破門したのである。「破門」は、当時のキリスト教世界では死に等しい。

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これらのポスターが実に多彩で面白い

ローマになだれ込み

ローマ皇帝カール五世を讃えて作られたモニュメントだったこれは判りやすいですね。日本語の「おはよう」そのものです。乱するのは、なぜか別れ際にも「ボンジョルノ」が出て来ること。例えばお店で買物をして、帰る時に「ボンジョルノ」と言われたりします。ちょっと混どうやら単に「おはよう」とか「こんにちは」よりも深い意味があるに違いないと考えて観察を続けた結果、これは「良い一日をお過ごし下さい」、つまり米語の「ハブ·ア·ナイス·デイ」とか、オーストラリアでよく言う「グッデイ」(これは「好い日」という意味だから、文字通り「ボンジョルノ」だ)と同じ意味ではないかとの結論に至りました。外界の激動など無関係であるかのようにローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中

なんらかの機会に

観る者すべてに驚嘆の声をあげさせ

さて、午前中の「ボンジョルノ」には全く違和感がないのですが、午後になるとイタリア国内でも場所により事情が変わってきます。周囲を再び観察してみると、ミラノでは夕方近くまで(会社の終わる五時頃が目安でしょうか)「ボンジョルノ」を使いますが、例えばイタリア中部の会社に午後電話をすると「ボナセーラ」、つまり「グッド·イブニング」と言われて最初は面食らったものです。もしかすると中南部では昼休みが長いことと関係しているのかも知れませんね。場所によって、昼食後は全て「ボナセーラ」になるところ、夕食前は全て「ボンジョルノ」で押し通すところ(ミラノはその典型)など様々で、イタリアの地域色の強さをよく現しています。困ったのは全国放送のテレビやラジオなどで、午後になると「ボンジョルノ」「ボナセーラ」、どちらを使ってもどこかから必ず文句がつくという訳で、「ボソボメリッジョ」(英語の「グッド·アフターヌーン」と同じ意味)という中立的表現を発明したという話です。

イタリアのバールに入るとまず目に付くのが店の奥に横に長いカウンター

この時代の中近東の人々は皆ユダヤ教を信じるユダヤ人。しかしこのユダヤ教のしきたりに矛盾を感じたキリストは、自分の信念を貫き、そしてユダヤ教ファリサイ派が押し通す立法に真っ向から対立してゆくのでした。この世で一番貴い人は皇帝ではなく、神だというのが彼の信念。そして正しい行いに、いちいち細かい立法を当てはめる必要などない!という考え。これが故にローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです。

敗者復活制度があって常に社会が刺激を受け

しかし実際の理由はこの時代の宗教ユダヤ教への反逆罪でした。詳しくはアマゾンにて誰でもわかるキリスト教をご覧ください。キリスト磔刑後、彼は予言通り3日後に復活し、弟子達に全てを伝授しそして40日後に昇天します。その後イエスの言葉を語り継ぐのが、キリスト教発祥となるのです。このキリスト教布教に欠かせない人物が二人。
日付未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落

1分いくらなどの従量制の場合があります

注意が緩んだ隙に、手荷物を置き引きされてしまうと言うのは、良くあるケースです。そこにパスポートが入っていたりしたら最悪ですね。空港のロビー、駅構内や列車の中なども狙われやすい場所ですし、混雑した地下鉄車内も要注意。レストランで席に着く時や帰るとき、また食事の最中でも荷物をうっかり座席に置いておいて盗られてしまったケースもあります。ショッピングに夢中になって注意がおろそかになった時も危険です。

うっかり携帯電話を使いながら運転中に警察に見つかれば罰金ものなのだが

自分の荷物を置いて、色々試していて気が付いたら、自分の荷物がなかったなんてこともあります。意外にコンサバなイタリア女性の服装日本の女性の服装は実は世界的に見ても極めて開放的で、欧州からやってきた人間が驚くこともしばしばです。先日来日した英国人は日本に何度も来ているのですが、それでも渋谷の路上で,”Tooshort!”と言う言葉を連発していました。もちろんスカートの丈の話ですね。イタリアでもリゾート地だとか、ミラノのファッション業界の女性などを除けば、服装のスタイルについては比較的オーソドックスと考えてよいでしょう。

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ピサーノが建築した夜通し語り合っていたときに

ローマ時代には

彼の並外れたバイタリティはどこから来たのか、実はアブルッツォに来た最大の理由はその源泉を知りたいがためであった。私はアブルッツォ国立考古学博物館」で見たあの「戦士カペストラーノ」とヴァリニャーを重ねてみた。二五00年以上前の山岳部族の強い精神は悠久の時を経ても変わらず、ヴァリニャーノに受け継がれていたのだろう。ローマ帝国崩壊後のキエティ西ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう。幸いにビザンチン帝国が東ゴート族を滅ぼすと、キエティに「テアーテ公国」が建設される。ローマでも指折りのデパートリナシェンテがあります

住民登録をチェックして送って来るらしい

キエティがデアーテ」と呼ばれていた安定した時代である再び歴史の流れが一気に変わるのは、五世紀から九世紀にかけて酉ヨーロッパを支配したゲルマン系のフランク王国の侵入であった。キエティは八01年にフランク王国によって破壊されてしまう。外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていく。時が流れ、一二世紀になるとあたり一帯の領土はラクイラの章で登場したあのフェデリコ11世の「神聖ローマ帝国」になる。ノルマン人も住むようになるとキエティは経済的にも文化的にも落ち着き始めた。


ローマはなんと
ローマはなんと

イタリア語会話にも余り出ていないし

イタリアで最も美しい町の一つに選ばれたと知ったのは恋人たちの家は、お互い激しく対立していたことにもなっている。それは両家が、当時半島を二分していた抗争の真っ只中にいたからだ。イタリアの各都市はそれぞれ、ローマ法王を支持する(ゲルフ派)か、それともドイツを拠点とする神聖ローマ皇帝の傘下に加わる(ギベン派)かの二者択一を迫られた。どこの街でも、その中は両派に分かれ、果てしない主導権争いが続いていた。見に来たれよ、モンテッキ家とカッペッレッティ家の人々を、(中略)その思慮なき人々は、(ダンテ·アリギエーリ、『神曲』煉獄篇、第六歌CVI-CV111、筆者訳)すでに悲しみの中にいた一三一二年から一三一八年頃まで、抗争のあおりで亡命中だったダンテがヴェローナに滞在している。ローマ教皇と神聖ダンテがそのとき潛き残した両家こそ、恋する二人のそれぞれの家のモデルとなったものだ。ただし当初は悲恋物語とは関係なく、ヴェローナのギベリン派モンテッキ家がサン·ボニファチオ家に打倒され、ゲルフ派でクレモナを地盤とするカッペッレッティ家がペラヴィチーノ家に敗れた史実を詠ったまでだ。しかし恋の話はともかくも、有名な伝説の設定は、れっきとした事実に基づいていたわけである。しかし、ここからシェイクスピアの有名な戯曲になるまでの道のりは、とても長く複雑だシエナに戻ったガノッツァは、首を斬られた恋人を発見し、その亡骸の上で悲しみのあまり死んでしまった。チョ·サレルニターノ、r11Novellino[小説集]』、第三三話MariottoeGanozza」、筆者訳)(マズツおそらくは各地に残る悲恋の伝承をもとに、サレルニターノが一四七六年に発表した物語マリオットとガでは、舞台こそシエナとなってはいるものの、その後の大筋はほぼできあがっている。

イタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう

大手銀行や事務所や店舗が重い錠で閉鎖されていた。その扉には蜘蛛の巣が張っていた。皇帝vs法王の権力争いの始まりこの町は前述したフェデリコ二世(一一九四-一二五○)というイタリア史上最も「国際人」といわれた神聖ローマ帝国の皇帝が築き上げた新しい理想都市であった。そのコンセプトにはフランスやローマ法王に対抗するための都市計画が念入りに盛り込まれている。皇帝フェデリコ11世と法王との戦いは、相続問題を含む領土の奪い合いであった。


元老院とよく協調して政治にあたり
元老院とよく協調して政治にあたり

ローマ人が造った1万人も座れる巨大野外円形劇場の跡地が一九九三年に発掘され

ドイツの神聖ローマ帝国とローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは、この皇帝フェデリコ二世から始まるのである。それは同時にイタリア全土に「皇帝派」と「法王派」という二つの派閥を作ることになる。そして、イタリアは神聖ローマ帝国、スペインのアラゴン王家、そしてフランスのアンジュー家の激しい争いに巻き込まれ、翻弄されていくのだった。聖地エルサレムとフェデリコ二世シチリアで育ったといわれ、英才教育によって高い教養を身につけたフェデリコ二世が造り出した、斬新なラクイラの都市構造には、さらに話の続きがある。この構造が、あの「聖地エルサレム」と同じ配置をしているというのだ。イタリアならではであるまず最初は目指す通りの名前を地図で探すのに一苦労する

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ラクイラでサン·ベルナルディーノ大聖堂が建設される

イタリアの呼び名まで違ってくるので

町が誇るマルチーニ劇場もその一つである。アブ»ッツオ考古学国立博物館へマルチーノ通りという、日本でいえば銀座通りのようなおしゃれな通りをしばらく歩くとトレント·トリステ広場」にぶつかった。その広場から延びる「一一月四日通り」をまっすく行くと、噴水のある円形の庭園に辿り着いた。どうやらここにお目当てのアブルッツォ国立考古学博物館」があるらしい。そこに、あの「戦士カペストラーノ」の本物が飾られているのだキョロキョロあたりを見渡すと木々で覆われた高台があり、客が見えた。

「あの森のなかだ」階段から下りてくる数人の観光階段を一五段ほど上るとそこには品の良い三階建ての重厚なクリーム色の館があった。博物館というよりは貴族の邸宅といった趣だった。博物館の前庭に玉砂利が敷かれており、その上をザクザクと音を立てながら入口に向かっていった。胸の鼓動が高鳴るのは、ロマンをかき立てる謎の遺跡がまもなく見られるからだった。「戦士カペストラーノ」の彫刻博物館のガラスのドアをゆっくり開けた。

  • 15世紀にはスペインが直接支配
  • ミラノのタクシーは安全かと聞かれることがよくあった
  • 平民だけで開かれる集会と

ローマを目指したのです

イタリア語を使うようになってまずびっくりしたのはタリアコッツオ「ヨーロッパ史を変えた大事件」私は今、アブルッツォ州ラクイラ県の町、タリアコッツォに立っている。思えばこの州を訪れる決断をするまでに、三0年という長い月日が流れたが、やはりこの時間が私には必要だったのだろう。ローマから最初に足を踏み入れたこのラクイラ県の町、タリアコッツォから私の旅は始まった。読者はイタリアの歴史のなかで、「タリアコッツォの戦い」という言葉を聞いたことがあるだろうか。この戦いはイタリアというよりも、世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だった。

土曜日に前倒しで行われたりその歴史を動かした舞台をさっそく訪れてみよう。イタリア語で旧市街をチェントロストリコ(歴史地区)と呼ぶが、小さな町ではたいてい城壁の外にある駐車場に車を止めなければならない。中世の時代、車が通れる道幅など考えていたわけではないからだ。車一台がやっと通れるか通れないかというような細い道ばかりである門をくぐってゆっくり城壁内に入ると、まるで中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われた。大きな広場の中央にはオベリスクが立っている。

スリや置き引き

の、アビニョン捕囚から最初にイタリアに帰ってきた法王、マルティヌス5世。1420年以降、教皇はまたイタリアバチカンに戻ってくるのでした。そして1450年を聖年とし、それ以来多くの巡礼者がイタリアを訪れるのでした。その勢いに乗って、ローマのヴァチカン宮殿、サンピエトロ大聖堂の改築などが始まるのでした。この建設ラッシュにかり出されたのが、そう、ダヴィンチと並ぶルネッサンスの巨匠、ミケランジェロとラッファエロなのでした。

イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが

ナポリ王国と呼ぶようになったラッファエロにはこのサンピエトロ大聖堂建設責任者として。そしてミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の建築を。この大事業に関して必ずお話しなくてはいけないことがあります。そう、この一世一代の大事業を成し遂げるためには、莫大な資金が必要だったのです。この資金調達のために行われたのが、そう、免罪符発布、「皆のもの天国へあがりたいのであるならば、自らの罪を払拭するためにはこの免罪符を買わなくてはいけない」このあまりに不合理な教皇の行動に待ったをかけたのが、そう、今のドイツのドレスデンで修道士をしていたルター。