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ヨーロッパは

料金は高いと言うのが一般的なところです

日本人はすぐビールを頼みたくなるのですが、イタリアではピッツェリアやバール以外でビールを頼むことは余りありません。この質問の真意は「ワインと水はどうするの?」と言うことで、もしお酒が飲めないなら、堂々と水(ミネラル·ウォーター-アックア·ミネラーレ)を頼みましょう。その際にガス入り(ガッサータまたはフリザンテ)か、ガスなし(ナトゥラーレ)なのか、はっきりすることです。ワインについてはよく判らなければ、ハウスワインを頼んでおけば間違いはありません。メインが肉なら赤、魚なら白は基本ですね。

さて、ここで注意する点があります。日本では基本的に前菜から主菜にあたる料理まで、ほぼ同時並行的に出て来るのが特徴ですが、イタリア料理は単線的で、一つの段階が終われば次に進むという具合(余談ですが、イタリア人の仕事のやり方もそうです)。従って、例えば数人のグループで、一人だけ前菜をさっさと食べ終わってしまったり、逆にまだ食べ終わってなかったりすると、基本的には次の料理と進めないので要注意です(お酒を飲む方がワインばかり飲んで、料理に手を付けないとこう言う現象が起こります)。CHIANTICLANSiroORMANNもう一つ注意しなければいけないのは、ワインは基本的に料理に付随するものだということです。主役はあくまで料理なので、料理は手を抜いてワインだけは飛び切り高級と言う飲み方はイタリアでは邪道です。

  • 地中海沿岸のほとんどの世界を征服したこのアウグストゥス統治時代に
  • ラクイラのサンタ·マリア·ディ·コッレマッジョ大聖堂で見たあの悲しい姿と同じ
  • フィレンツェと覇権を争った

ヴェネツィアローマ帝国

フィレンツェのメディチ家はフランスの法王側を応援していた医師からもらった処方箋には三種類の薬がいてあったのだが、薬局のお兄さんは二種類しか薬をくれない「もう一つは?」と聞いたら、これはリポーザだから良く眠りなさいと言うことだと言われてしまった。確かに殴り書きの処方箋を目を凝らして見るとリポーザと読めなくはない。辞書を引いてみたら休息のこと。確かに睡眠は良薬の一つには違いがないのだが医者も知り合いを通じて行くと全然取り扱いが違うのもコネ社会のイタリアらしいところ。家内が妊娠したので、某病院の院長先生から別の病院の先生に紹介され、約束の時間に病院に行ったところ、待合室で待たされもせずに、わざわざこの先生(プロフェッソーレつまり教授である)が迎えに出てきてくれたのにはびっくりした。

そう一筋縄ではゆかないのがそれにしても、紹介をしてくれた院長先生は産婦人科ではイタリアで最高権威の一人だそうだが、自分が院長をしている病院で診察しているのはもちろんとして、別に個人で診療所は持っているし、別の病院でも週に一日は診察しているという超多忙ぶり。このほか医者向けの専門書も書いているとのことで、一体どこからそんな時間が出てくるのだろうか。偉い先生の割には偉ぶったところがないのは、国民性の違いかそれとも医者もサービス業と心得ているせいなのかは良く判らない医療水準といった点では日本とイタリアの差は感じないが、大きな違いを感じたのは診察を受けた際の情報は全て患者に帰属すると言う点である。例えば、家内が受けた超音波検査や血液検査のデタは全て分析結果のコメントと共に渡してくれる。従って、検査を受けた病院以外でもこの資料を見せて医師の診療を受けることが出来る訳である。

ローマ近郊のカラカラ帝浴場や石畳のアッピア街道

一○七五年には教皇位の優位と不可侵、そして世俗権力による一切の聖職任免の禁止を公布する。聖職叙任権闘争の堂々たる宣戦布告である。怒った神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は独自に宗教会議を開催し、グレゴリウス七世の廃位を一方的に宣亨る。「ローマに、教皇を連れて皇帝がやって来るだろう。なぜならそこにいるのは教皇ではなく、狼だからだ」。

イタリアのサッカーはすっかり馴染み深くなったようだ

ローマ建築を代表するこうした侮辱がなされている間、聖庁長官は怒りのあまり、自らの剣で特使を殺したい衝動に駆られた。もし主がおしとどめていなければ、殺していたかもしれない。(ドニゾーネ、『カノッサのマティルデの生涯』、一二世紀、パオロ·ゴリネッリ編による一九八四年ジャカブック版より、筆者訳)そこで教皇は伝家の宝刀を抜く。皇帝を破門したのである。「破門」は、当時のキリスト教世界では死に等しい。

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これらのポスターが実に多彩で面白い

ローマになだれ込み

ローマ皇帝カール五世を讃えて作られたモニュメントだったこれは判りやすいですね。日本語の「おはよう」そのものです。乱するのは、なぜか別れ際にも「ボンジョルノ」が出て来ること。例えばお店で買物をして、帰る時に「ボンジョルノ」と言われたりします。ちょっと混どうやら単に「おはよう」とか「こんにちは」よりも深い意味があるに違いないと考えて観察を続けた結果、これは「良い一日をお過ごし下さい」、つまり米語の「ハブ·ア·ナイス·デイ」とか、オーストラリアでよく言う「グッデイ」(これは「好い日」という意味だから、文字通り「ボンジョルノ」だ)と同じ意味ではないかとの結論に至りました。外界の激動など無関係であるかのようにローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中

なんらかの機会に

観る者すべてに驚嘆の声をあげさせ

さて、午前中の「ボンジョルノ」には全く違和感がないのですが、午後になるとイタリア国内でも場所により事情が変わってきます。周囲を再び観察してみると、ミラノでは夕方近くまで(会社の終わる五時頃が目安でしょうか)「ボンジョルノ」を使いますが、例えばイタリア中部の会社に午後電話をすると「ボナセーラ」、つまり「グッド·イブニング」と言われて最初は面食らったものです。もしかすると中南部では昼休みが長いことと関係しているのかも知れませんね。場所によって、昼食後は全て「ボナセーラ」になるところ、夕食前は全て「ボンジョルノ」で押し通すところ(ミラノはその典型)など様々で、イタリアの地域色の強さをよく現しています。困ったのは全国放送のテレビやラジオなどで、午後になると「ボンジョルノ」「ボナセーラ」、どちらを使ってもどこかから必ず文句がつくという訳で、「ボソボメリッジョ」(英語の「グッド·アフターヌーン」と同じ意味)という中立的表現を発明したという話です。

イタリアのバールに入るとまず目に付くのが店の奥に横に長いカウンター

この時代の中近東の人々は皆ユダヤ教を信じるユダヤ人。しかしこのユダヤ教のしきたりに矛盾を感じたキリストは、自分の信念を貫き、そしてユダヤ教ファリサイ派が押し通す立法に真っ向から対立してゆくのでした。この世で一番貴い人は皇帝ではなく、神だというのが彼の信念。そして正しい行いに、いちいち細かい立法を当てはめる必要などない!という考え。これが故にローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです。

敗者復活制度があって常に社会が刺激を受け

しかし実際の理由はこの時代の宗教ユダヤ教への反逆罪でした。詳しくはアマゾンにて誰でもわかるキリスト教をご覧ください。キリスト磔刑後、彼は予言通り3日後に復活し、弟子達に全てを伝授しそして40日後に昇天します。その後イエスの言葉を語り継ぐのが、キリスト教発祥となるのです。このキリスト教布教に欠かせない人物が二人。
日付未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落

1分いくらなどの従量制の場合があります

注意が緩んだ隙に、手荷物を置き引きされてしまうと言うのは、良くあるケースです。そこにパスポートが入っていたりしたら最悪ですね。空港のロビー、駅構内や列車の中なども狙われやすい場所ですし、混雑した地下鉄車内も要注意。レストランで席に着く時や帰るとき、また食事の最中でも荷物をうっかり座席に置いておいて盗られてしまったケースもあります。ショッピングに夢中になって注意がおろそかになった時も危険です。

うっかり携帯電話を使いながら運転中に警察に見つかれば罰金ものなのだが

自分の荷物を置いて、色々試していて気が付いたら、自分の荷物がなかったなんてこともあります。意外にコンサバなイタリア女性の服装日本の女性の服装は実は世界的に見ても極めて開放的で、欧州からやってきた人間が驚くこともしばしばです。先日来日した英国人は日本に何度も来ているのですが、それでも渋谷の路上で,”Tooshort!”と言う言葉を連発していました。もちろんスカートの丈の話ですね。イタリアでもリゾート地だとか、ミラノのファッション業界の女性などを除けば、服装のスタイルについては比較的オーソドックスと考えてよいでしょう。

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ピサーノが建築した夜通し語り合っていたときに

ローマ時代には

彼の並外れたバイタリティはどこから来たのか、実はアブルッツォに来た最大の理由はその源泉を知りたいがためであった。私はアブルッツォ国立考古学博物館」で見たあの「戦士カペストラーノ」とヴァリニャーを重ねてみた。二五00年以上前の山岳部族の強い精神は悠久の時を経ても変わらず、ヴァリニャーノに受け継がれていたのだろう。ローマ帝国崩壊後のキエティ西ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう。幸いにビザンチン帝国が東ゴート族を滅ぼすと、キエティに「テアーテ公国」が建設される。ローマでも指折りのデパートリナシェンテがあります

住民登録をチェックして送って来るらしい

キエティがデアーテ」と呼ばれていた安定した時代である再び歴史の流れが一気に変わるのは、五世紀から九世紀にかけて酉ヨーロッパを支配したゲルマン系のフランク王国の侵入であった。キエティは八01年にフランク王国によって破壊されてしまう。外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていく。時が流れ、一二世紀になるとあたり一帯の領土はラクイラの章で登場したあのフェデリコ11世の「神聖ローマ帝国」になる。ノルマン人も住むようになるとキエティは経済的にも文化的にも落ち着き始めた。


ローマはなんと
ローマはなんと

イタリア語会話にも余り出ていないし

イタリアで最も美しい町の一つに選ばれたと知ったのは恋人たちの家は、お互い激しく対立していたことにもなっている。それは両家が、当時半島を二分していた抗争の真っ只中にいたからだ。イタリアの各都市はそれぞれ、ローマ法王を支持する(ゲルフ派)か、それともドイツを拠点とする神聖ローマ皇帝の傘下に加わる(ギベン派)かの二者択一を迫られた。どこの街でも、その中は両派に分かれ、果てしない主導権争いが続いていた。見に来たれよ、モンテッキ家とカッペッレッティ家の人々を、(中略)その思慮なき人々は、(ダンテ·アリギエーリ、『神曲』煉獄篇、第六歌CVI-CV111、筆者訳)すでに悲しみの中にいた一三一二年から一三一八年頃まで、抗争のあおりで亡命中だったダンテがヴェローナに滞在している。ローマ教皇と神聖ダンテがそのとき潛き残した両家こそ、恋する二人のそれぞれの家のモデルとなったものだ。ただし当初は悲恋物語とは関係なく、ヴェローナのギベリン派モンテッキ家がサン·ボニファチオ家に打倒され、ゲルフ派でクレモナを地盤とするカッペッレッティ家がペラヴィチーノ家に敗れた史実を詠ったまでだ。しかし恋の話はともかくも、有名な伝説の設定は、れっきとした事実に基づいていたわけである。しかし、ここからシェイクスピアの有名な戯曲になるまでの道のりは、とても長く複雑だシエナに戻ったガノッツァは、首を斬られた恋人を発見し、その亡骸の上で悲しみのあまり死んでしまった。チョ·サレルニターノ、r11Novellino[小説集]』、第三三話MariottoeGanozza」、筆者訳)(マズツおそらくは各地に残る悲恋の伝承をもとに、サレルニターノが一四七六年に発表した物語マリオットとガでは、舞台こそシエナとなってはいるものの、その後の大筋はほぼできあがっている。

イタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう

大手銀行や事務所や店舗が重い錠で閉鎖されていた。その扉には蜘蛛の巣が張っていた。皇帝vs法王の権力争いの始まりこの町は前述したフェデリコ二世(一一九四-一二五○)というイタリア史上最も「国際人」といわれた神聖ローマ帝国の皇帝が築き上げた新しい理想都市であった。そのコンセプトにはフランスやローマ法王に対抗するための都市計画が念入りに盛り込まれている。皇帝フェデリコ11世と法王との戦いは、相続問題を含む領土の奪い合いであった。


元老院とよく協調して政治にあたり
元老院とよく協調して政治にあたり

ローマ人が造った1万人も座れる巨大野外円形劇場の跡地が一九九三年に発掘され

ドイツの神聖ローマ帝国とローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは、この皇帝フェデリコ二世から始まるのである。それは同時にイタリア全土に「皇帝派」と「法王派」という二つの派閥を作ることになる。そして、イタリアは神聖ローマ帝国、スペインのアラゴン王家、そしてフランスのアンジュー家の激しい争いに巻き込まれ、翻弄されていくのだった。聖地エルサレムとフェデリコ二世シチリアで育ったといわれ、英才教育によって高い教養を身につけたフェデリコ二世が造り出した、斬新なラクイラの都市構造には、さらに話の続きがある。この構造が、あの「聖地エルサレム」と同じ配置をしているというのだ。イタリアならではであるまず最初は目指す通りの名前を地図で探すのに一苦労する

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ラクイラでサン·ベルナルディーノ大聖堂が建設される

イタリアの呼び名まで違ってくるので

町が誇るマルチーニ劇場もその一つである。アブ»ッツオ考古学国立博物館へマルチーノ通りという、日本でいえば銀座通りのようなおしゃれな通りをしばらく歩くとトレント·トリステ広場」にぶつかった。その広場から延びる「一一月四日通り」をまっすく行くと、噴水のある円形の庭園に辿り着いた。どうやらここにお目当てのアブルッツォ国立考古学博物館」があるらしい。そこに、あの「戦士カペストラーノ」の本物が飾られているのだキョロキョロあたりを見渡すと木々で覆われた高台があり、客が見えた。

「あの森のなかだ」階段から下りてくる数人の観光階段を一五段ほど上るとそこには品の良い三階建ての重厚なクリーム色の館があった。博物館というよりは貴族の邸宅といった趣だった。博物館の前庭に玉砂利が敷かれており、その上をザクザクと音を立てながら入口に向かっていった。胸の鼓動が高鳴るのは、ロマンをかき立てる謎の遺跡がまもなく見られるからだった。「戦士カペストラーノ」の彫刻博物館のガラスのドアをゆっくり開けた。

  • 15世紀にはスペインが直接支配
  • ミラノのタクシーは安全かと聞かれることがよくあった
  • 平民だけで開かれる集会と

ローマを目指したのです

イタリア語を使うようになってまずびっくりしたのはタリアコッツオ「ヨーロッパ史を変えた大事件」私は今、アブルッツォ州ラクイラ県の町、タリアコッツォに立っている。思えばこの州を訪れる決断をするまでに、三0年という長い月日が流れたが、やはりこの時間が私には必要だったのだろう。ローマから最初に足を踏み入れたこのラクイラ県の町、タリアコッツォから私の旅は始まった。読者はイタリアの歴史のなかで、「タリアコッツォの戦い」という言葉を聞いたことがあるだろうか。この戦いはイタリアというよりも、世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だった。

土曜日に前倒しで行われたりその歴史を動かした舞台をさっそく訪れてみよう。イタリア語で旧市街をチェントロストリコ(歴史地区)と呼ぶが、小さな町ではたいてい城壁の外にある駐車場に車を止めなければならない。中世の時代、車が通れる道幅など考えていたわけではないからだ。車一台がやっと通れるか通れないかというような細い道ばかりである門をくぐってゆっくり城壁内に入ると、まるで中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われた。大きな広場の中央にはオベリスクが立っている。

スリや置き引き

の、アビニョン捕囚から最初にイタリアに帰ってきた法王、マルティヌス5世。1420年以降、教皇はまたイタリアバチカンに戻ってくるのでした。そして1450年を聖年とし、それ以来多くの巡礼者がイタリアを訪れるのでした。その勢いに乗って、ローマのヴァチカン宮殿、サンピエトロ大聖堂の改築などが始まるのでした。この建設ラッシュにかり出されたのが、そう、ダヴィンチと並ぶルネッサンスの巨匠、ミケランジェロとラッファエロなのでした。

イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが

ナポリ王国と呼ぶようになったラッファエロにはこのサンピエトロ大聖堂建設責任者として。そしてミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の建築を。この大事業に関して必ずお話しなくてはいけないことがあります。そう、この一世一代の大事業を成し遂げるためには、莫大な資金が必要だったのです。この資金調達のために行われたのが、そう、免罪符発布、「皆のもの天国へあがりたいのであるならば、自らの罪を払拭するためにはこの免罪符を買わなくてはいけない」このあまりに不合理な教皇の行動に待ったをかけたのが、そう、今のドイツのドレスデンで修道士をしていたルター。

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イタリアでいまも国民的な人気を誇る聖女

ヴェネツィアに次ぐヴェネト州第二の都市で

「君は法王庁の裁判官になる資質をもっている。だが、裁判官は聖職者からしかなれない。君のもっている法学の学位だけでは足りない。神学の学位をパドヴァ大学に戻ってとってきなさい」「わかりました。聖職者になってまたローマに戻ってまいります」ここで言う神学の学位だが、イメージとして「神学と論理学」だと思いがちだが、実は、哲学、数学、物理学、天文学、形而上学を含む幅の広い学問であった。これは小麦の産地に近いことと気候が麺を乾燥させるのに適していたためだそう

ヨーロッパの宮廷祝宴で好評を博したという

神父になるためには神の存在を弁証できる能力が求められ、かつ、神が創造した自然科学を研究することが必要であった。だが、大学に再び戻ると、きまじめでいながらも情熱的なアレッサンドロは、これまで張り詰めていた糸がきれたかのように、一人の女性に恋をしてしまう。その名はフランチェスカーナ·トローナ。ダンテがベアトリーチェに一目惚れしたのと同じであった。私は、どうしてもこれが真実かどうかヴァリニャーノにそのことを聞いてみたかった。


フィレンツェの男と女として公認された
フィレンツェの男と女として公認された

イタリアでは日本人がいない場所を探すのが難しいほどで

フィレンツェに工房をもち通称ヴェロッキオ親方の弟子だった当たり前の話だが、子どもは育った環境で色々な仕草を覚える訳で、日本人の子ども達もイタリア人の子ども達と一緒にイタリアの幼稚園に行けば、イタリア的ボディーランゲージを覚えるのは当然。ミラノの日本人学校では年に一回、学習発表会と言って学芸会のような催し物があるのだが、特に小学校低学年の子たちの仕草を見ていると素直に日本的、イタリア的表現が出て来るので楽しい。普段、街中や事務所で見ていてこれまた面白いのは、電話でも同じく口八丁、手八丁が出て来ることだ。もっともイタリア人から見ると、電話に向かってしきりにお辞儀をする日本人がいるのが面白いと言うから、まあお互い様か。最近は携帯電話が増えたから街を歩いていると、向こうから片手に携帯電話、空いた手を激しく上下に振りながら歩いてくるイタリア人によく出会う。ヴェネツィアではちょっと難しいかも知れません例え電話と言えども、会話の相手に自分の意のあるところを通じさせようとすれば、手を使わねばバランスが取れない、あるいは気持ちが収まらないといったところだろうか。イタリア人は口から生まれたのではなくて、手から生まれたのかもしれない。くリにライタリアには警察官の種類がやたらに多くて戸惑ってしまう。街で良く見かけるのはカラビニエーリという憲兵で、これは津々浦々まで駐在所があって、黒地に赤い文字を浮き立たせたアルファロメオに乗っており、制服も黒字に赤とおしゃれである。大都市の駐在所の前や空港には軽機関銃を下げたカラビニエーリが立っていて物々しい。

日本の喫茶店と同じ様なものだと思っていれば間違いない

谷間だから橋を架けるのは不思議ではない。この日に出勤すると道は空いているし、取引先に電話をしても担当者が休んでいることも多く、それどころか全社休業という会社もあって、自分だけ働いているのが悪いことをしてるような気持ちになるから不思議である。しかし、考えてみれば、一年の内まるまる1カ月休んで、経済活動と生活水準を維持しているというのは大変なことだ。日本で同じようなことになったら一体どうなることだろうか。残り十一ヶ月を一所懸命に働いて結構うまく乗り切ってしまうような気もするが。


ミラノの歩道には屑入れが沢山設置され
ミラノの歩道には屑入れが沢山設置され

各方面で異民族とのいさかいが続いていた

イタリアは中に一歩入れば表とは別世界。ミラノ中心部の街も一歩建物を裏に抜けると表通りとは別世界で、鬱蒼と木の茂った緑豊かな中庭が広がり、中には孔雀やフラミンゴを飼っている所もあるとか。よく晴れた日にミラノの中心にあるドゥオモの屋上にのぼると、表通りには街路樹もないのに、建物に囲まれた中庭やビルの屋上から木々の緑が見えるのに気付く港町ジェノバに行った時のこと。険しい山が海のすぐ側まで迫っているこの港町は、日本で言え余談であるが、ば神戸か長崎に似て、ここの旧市街の裏町は狭い路地が迷路のように入り組んでおり、昼間でも日が射さない不気味なところだ。怪しげな人々があちこちに佇んでいたり、何を生業としているのかよく判らない店がそこここにある。セルビアなどが攻撃してくるのでした