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最後に複数形の.1で終わるのに気づいていますか

イタリアのスポーツと言えば誰でもまず最初に思い浮かべるのがサッカー

到着ギリギリまで番線が案内されないことも多いので、その時はこうした案内板の近くでひたすら待つしかありません。多いので、手荷物には常に注意し、貴重は絶対に手元から離さないように気をつけましょう。その際に置き引きなどの被害に遭う事が出発番線がわかったら、ホームに向かいます。気を付けなければいけないのは、以前はイタリアの駅には日本のような改札口がなかったのですが、2015年春からミラノ中央駅には新たに改札ゲートが設置され、乗車券を持っていないとホームに入ることが出来なくなりました。フィレンツェやローマでも長距離高速列車のホーム入口で係員が乗車券をチェックするようになったようですが、これが他の駅にも広がるのかどうかは定かではありません。英語ではジョン

独特の薬草のような癖のある長い紐状のキャンディーが大きな割合を占めている

改札口のない多くの駅では乗車券がなくてもホームに入れるし、列車にも乗れてしまうのですが、座席指定のない乗車券の場合、駅で入場する際に必ずプラットホームの端にある改札機(写真参照)でスタンプを押さなければなりません。これを押し忘れると検札で罰金を取られることもあるので、ご注意ください。なおネットで乗車券を予約した場合には、この改札機を使う必要はありません。ホームの天井にはモニターが設置されていて号車番号が示されているので、例えば5号車なら5の表示のモニター付近で待機しましょう。始発駅ならそのまま乗リ込んでしまえば良いのですが、途中駅の場合は降りる人が終わってから乗り込みます。


カプチーノを頼んではいけませんよ
カプチーノを頼んではいけませんよ

ミラノ市内の墡店で写真入りのオペラ辞典を買い求め

ローマの支配階級の常ではありましたが雄大さと壮麗さにおいて、ここの建築物と比肩するものはなく、優美さにおいてここの噴水や庭園に勝るものなどありはしない。(アルベール·ジューヴァン·ド·ロシュフォールによる一六七二年の旅行記、筆者訳)一七世紀のパレルモを旅したフランスの碩学による、された観光客はとまどいを禁じえない。この最大限の賛辞を前に、今日のパレルモの中央駅広場で放り出いつ動くとも知れぬ車の列は、何の改善にもならぬことを知りながら、あなたの目の前で各自思い思いにクラクションを鳴らし続ける。消えかかった横断歩道の上を、重いスーツケースを押しながら歩くあなたの進行方向に、信号など一切無視した二人乗りのスクーターが白煙をあげながら突っ込んでくる道端の手入れの悪い芝生の上を、無数の煙草の吸殻やビニール袋が、ハトの羽とともに舞っている。ここが、かつて地中海に覇をとなえたシチリア王国の都だったとは......。その他中央部にいくつかある小国というように最初にこの海岸に陣地を築いたのは、北アフリカに栄えたカルタゴの人々である。彼らは地中海全域に植民都市を建設して大ギリシャ時代を迎えていたギリシャ諸都市に対抗して、地中海の北上を試みた。ギリシャ諸都市の代表がシラクーザであれば、パレルモはカルタゴの砦だった。そして地中海交易がほとんど欧州における貿易のすべてであった長い時代その中央に位置するシチリア島は必然的に、さまざまな民族たちによる触手の危険にさらされる運命にあった。ポエニ戦争によるカルタゴの衰退後、パレルモのあるじはローマにとってかわられた。

パレルモはアラブ人というあらたな主人を迎えた

そのローマがゲルマン諸民族に蹂躙されてからは、パレルモも蛮族の属領となった。その後、皇帝領の回復をはかったビザンチン(東ローマ帝国)の庇護のもとで数世紀をすごしたが、八三一年、パレルモはアラブ人というあらたな主人を迎えた。しかし、パレルモが主要な文化都市として名をあげたのは、実は彼らがここに首都機能を置いてからのことである。彼らは寛容な宗教政策をとり商業と農業を発展させ、三0万人を超えるイタリア1の大都市に育てたところで、一〇七二年、領主の位をノルマン人たちに奪われたじゅうりんはるか北フランスからやってきたヴァイキングの末裔たちは、この南の地において、異なる民族·宗教間の対立を抑えた宥和政策をとる。そして一○九五年、大いなる野望を持ったロゲリウス二世(イタリア語読みでルッジェーロ、チェファルーの項で既出)が誕生した。


イタリア統一戦争と呼ばれるものです
イタリア統一戦争と呼ばれるものです

大理石を砕いて使用しておりました

彼は新しい官僚制度を敷き、アラブ人やギリシャ人を登用してその才能を生かし、類まれなる外交能力と軍の統率力により、シチリア全土のみならず、イタリア半島の南部をも手に入れた。彼は神聖ローマ皇帝の侵入を撃退し、ローマ法王の介入をしりぞけ、北アフリカ沿岸一帯を支配下に入れ、果てはビザンチン帝国にまで軍を送って領土拡張を試みた。彼の果てしなき野心を支えた王国の都としての時代、そして名君フリードリヒ(フェデリーコ)二世の治世下で、パレルモは押しも押されもせぬ一大文化都市として繁栄を謳歌した。たぐいしかしその後、パレルモのみならずシチリア全域を、不寛容の時代が襲う。この地を手に入れたフランスのアンジュ1家は、ナポリへ遷都し、その後とってかわったスペインとともに、イスラム社会を島から追放し、その文化的痕跡を消し去った。イタリアの風物詩といえるも

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ラッティオ州の王女ラビニア

シエナが優美な形態と色彩を得意とする画家シモーネ·マルティーニらを輩出すれば

世界遺産に登録されています。フランス·パリのエトワール凱旋門のモデルになっています。1960年のローマオリンピックではマラソンのゴール地点になりました。高さ21m、幅25.7m、奥行7.4mととても大きく、至る所に手が込んだ彫刻が施されています。コロッセオから近いので、いっしょに見るとよいでしょう。イタリア人が日本へ行ってまず驚くことの一つ

イタリアの国々と

★スパーダ宮ゴシック建築を代表する建物で、デコレーションケーキを連想させるような装飾が施されています。いか?と思うほどの錯覚を起こさせる、ほかでは味わえない摩訶不思議な体験ができます。多数の絵画が展示されていますが、いちばんの見所は「遠近法の間」。自分の目がおかしくなったのではなカトリックの中心地で教会巡り★サン·ピエトロ大聖堂バチカン市国にあるカトリック教会の総本山。世界最大級の教会です。


イタリアの学生が話し始めた
イタリアの学生が話し始めた

ペルージャの人という名で呼ばれる画家がいる

ヨーロッパ人はどうするのだろう?とマテーラに人々が住み始めた時期は、はるか旧石器時代にまで遡ることができるのだ。今でこそあたりはなかば砂漠化しているように見えるが、かつてマテーラの高原は木々の生い茂る森林地帯だった。眼下には川が流れ、谷の斜面は柔らかな凝灰岩でできている。そこにはすでに、いくつかの天然の洞窟があった。岩肌は夏には涼しく、冬は風雪から人々をまもった人々はそこに住み始め、家族が増えると、斜面にほら穴を穿って、横穴式住居を拡げていった。スタンダールやリスト家族の規模がもっと大きくなると、人々はさらに横や奥へ、上や下へとほら穴を延ばした。こうして穴は中で次第に複雑な構造を持つようになっていった。やがて一帯の樹木が減り、渓流の水位が下がっていくと、人々は雨水や地下水をためておく部屋をつくり、そこへ効率よく水を集めるための導管を整備していった。マテーラの外でいかなる変化がおころうが、人々はかたくなにこの生活スタイルを変えなかった。ほら穴から出た人々によって,あるいは他から移住してきた人々によって、丘の上に都市が築かれるようになっても、多くの人々が洞窟の中にとどまった。

ミラノに来た当初

では、「回文」が示す世界を作った「神」が「ヤハヴェ」ということなのだろうか。さらに、門番が語っていた紀元前一二年ごろに栄えたシリアのドゥラ·エウロポス遺跡からも同じラテン語の二五文字が発見されたことも事実だとわかった。ここはユダヤ人が建てた多くの神殿やシナゴーグが見つかった場所である私は、「回文」について抑えきれない好奇心がどんどん湧き出すのを感じた。アブルッツォ·コード現代のようなグローバルな時代ならわかるが、紀元前の人びとはどのようにしてヨーロッパ各地にこの「回文」を伝承したのだろうか。歴史の栄華の跡というものは、それがほとんど見えなくなっていればいるほど、妙に何かを告示しているような気がするものだ。


ローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです
ローマ帝国への反逆罪ということで磔刑されるのです

このルールが

私はそれを勝手に「アブルッツォ·コードと名付けた。イエス·キリスト誕生以前に各国に広まった「われらの父」とは誰なのか。まるで「隠れキリシタン的アイデアである。迫害のようなものから身を守るために、「回文」に願いを込めて密かにまことの「神」を祀り、その神に祈りを捧げていた信者たちがいたのではないかと連想したのである「シークレット·メッそれを信じる者たちが、それを信じない者たちから身を守るためにセージ」として各地に伝承したと考えるのは私だけだろうか。15文」と「雄牛を屠るミトラの像」ポンペイ遺跡の町の中心部には、『旧約聖書』に登場する「ソドムとゴモラ」の名前が木炭で落書きされている。ピサ軍からの11度にわたる挑戦をうけた

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イタリアの都市国家間に吹き荒れた対立抗争の

このアプローチの良さはスイスのチューリヒやジュネーブ

今も、壁に門がそのまま埋め込まれているのがよくわかる。さて、イタリア美術の歴史の中に、ずばり”ペルージャの人“という名で呼ばれる画家がいる。ルネサンス時代に活躍したペルジーノ(一四四八s-五二三)がその人であり、本名をピエトロ·ヴァンヌッチというあだ名に反してチッタ·デッラ·ピエーヴェという他の街の出身だった。彼はフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業をつみ(同僚にボッティチェリやレオナルドらが1た)、ペルージャに拠点を置いてほどなく、その名を知られるようになる。一四八〇年頃には法王から召集をかけられて、ローマへと旅している。

昔Wi-Fiレンタルした機器が取れてしまいシスティーナ礼拝堂を飾るために、イタリア全土から高名な画家が集められたのだ。ジェクトで声をかけられたという一点だけでも、当時のペルジーノの成功ぶりがしのばれる。このブロしかし現在はむしろ、ペルジーノの名前は”ラファエッロの先生としてしか一般には知られていない。それも、古めかしい様式を頑固に守る保守的で高齢の師と、進取の気鋭に富んだ天才肌の若き弟子、という対比で語られることが多い。このふたりは典型的な”出藍の誉れの例とみなされているのだ。

  • イタリアのパドヴァのアレーナ礼拝堂内部にある東方三博士の連作で有名なジョット
  • ヴェネツィアは激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し
  • あっという間に街を占領してしまった

ミラノのドゥオモ大聖堂の建設が始まったのは

イタリアフィレンチェで「こんな映画ができちゃったら、私のアマルフィがさらに混んじゃ?」と心の狭いことを言っている知人がいるのだがかつては「知る人ぞ知る」穴場だったアマルフィ海岸を訪れる日本人観光客の数はここ十年ほどの間に急増しており、知人の心配などもうとっくに現実のものとなっている。かなにしろ、街の公式ホームページやパンフレットに、「アマルフィを見たことがない者は、世界を見ていないに等しい(chinonhavistoAmalfi,nonhavistoilmondo)」というスティウェルによる言葉を不遜にも掲げるほど、アマルフィは自信満々なのだ。彼らの街の輝かしい歴史に。そしてその美しさにアマルフィ誕生の伝説からして、彼らの強烈な自負をよく示している。それは、英雄ヘラクレスの愛をうけた妖精アマフィが、その短い一生を終えたとき、ヘラクレスが彼女の亡骸をこの世で最も美しい場所に埋葬したというものだ。

ヴェネツィア共和国領と旧そして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。

ミラノのメルカートで1キロ千リラ七十円で買ったこともあるのだから

その後、ある時を境に呼び名は「ナカタ」にかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ(教皇選出会議)も五度ほどペルージャで開催されている。

ローマの人達は他の

ローマの浴場跡に作られた博物館ですペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。たとえばエトルリア時代の前11世紀頃に建てられたマルツィア門は、一五四0年にパオリーナ城塞が造られた際にその一部として取り込まれた。

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て他の外国語と比べると親しみやすい言語と言えよう

イタリアを往復し

ペットボトルの飲物などはキャップを外されてしまいますし、アルコール類や花火は持込み厳禁です。入場してから更に座席へと上がる通路の入口で改札があるので、チケットを入手したらなるべく早く中に入るようにしましょう。スタジアムの中に入っていくと、こすだけで鳥肌が立つほどです。まばゆい照明と共に何とも言えなぃざわめきと雰囲気が湧きあがってきます。これは筆者も大好きな瞬間で、その様子を思い起サンシーロ·スタジアムはミラン、インテルのホームなので、例えばミランの試合であれば基本的に観客はミランのサポーターです。富を求めて世界中を行き交う男たちが集う場

それは日本人が私は英語を話せませんと言うレベよりずっと下の事も多々あります

相手チームの応援団も来ていますが、ミランの応援団(青に陣取る)とは反対側の赤のコーナーに機動隊に両脇を挟まれての応援です。もしもあなたが相手チームのファンだったとしても、相手チームのマフラーやウェアは外に出さない方が無難です。ミラノのスタジアムで、サポーターによる暴力沙汰があったと言う話は幸い聞いたことがありませんが、郷に入っては郷に従えで、ミランやインテルのサポーターと共にゴールを喜び、歓声をあげて隣の人と抱き合ったり握手したりすれば、いやでもサポーターになってしまうことでしょう。もう一つのご注意。このスタジアム(他も·緒ですが)は床がコンクリートの打ちっ放しで、履き、特に女性の場合はベンチコートなどを用意した方がよいかも知れません。


渋滞が著しい所々で道をあけてもらい
渋滞が著しい所々で道をあけてもらい

ミラノのスタジアムで

された観光客はとまどいを禁じえないユーモアのセンスのあるダヴィンチは前にジョコンド氏の注文で描いたときとまったく同じポーズを今度もモナリザにとらせたとか。彼のこのユーモアを知っていたからこそ、モナリザはあんなに謎めいた微笑みを浮かべているのではないのでしょうか??第。バロック芸術とヴェネチア共和国舞台はフィレンツェからヴェネチアに移ります。最も穏やかな共和国と知られた都市ヴェネチアは、世界最強の帝国のひとつであり、政治の中心地でもありました。ヴェネチア帝国は北イタリアの国々と、東地中海の植民地を監督していたのです。イタリアの州都の中では一番高い場所に位置しているミラノ郊外の出身でしたがヴェネチアの成功の理由は商業であり、世界の商業の交差点に位置し、強力な海軍によって海上を制していたのです。極東や中国、北アフリカ、スペイン、そしてオランダからの貿易品は、すべてヴェネチアを通過するのでした。この勢いは東方への新しい海上ルートが発見され、新世界の探検が行われるようになるまで続くのでした。バロックとは、歪んだ真珠を意味するポルトガル語です。実際、バロックの建築をご覧いただいた際に、歪んだ真珠、外観の特徴としては、ねじれた柱、歪んだ真珠と語りながらご覧いただくと、本当に歪んだ真珠に見えるのがこの建築様式です。

ベローナへと向かう

スカンノの建築の素晴らしさや自然の美しさは訪れた者でなければ体感できないだろう。夏に行われる湖の花火大会や、伝統的な衣裳をまとって昔ながらの婚姻の行列を再現する「ユ·カテナッチエ」も観に訪れたい。スルモーナ「第二次世界大戦からの復興」アブルッツォ国立公園を後にして次に立ち寄ったのが周囲を緑豊かな山々で囲まれ、中世の景色を色濃く残すスルモーナという町であった。この町はちょうどアブルッツォ国立公園とマイエッラ山塊国立公園の中間に位置し、ラクイラ県にある。人口約二万七000人で、その発祥はとても古く、紀元前のローマ時代に遡る。


ローマ皇帝の権力争いの渦中にあり
ローマ皇帝の権力争いの渦中にあり

イタリア語の学校が並立している

日本でも有名な『変身物語』の作者、古代ロマの大詩人オヴィディウス生誕の地でもある。大詩人オヴィディウスとコンフェッティを生んだ町足の向くままに目抜き通り「オヴィディウス通り」を抜けると、光あふれる広場に出くわした。「九月二〇日」と名づけられたこの場所の中央に、スルモーナの市民たちが誇る大詩人オヴィディウスの銅像がすっと立っていた。そのまわりを囲んで身振り手振りでイタリア男たちが井戸端会議している光景があった。いつも思うのだが、日本とは違って外でおしゃべりする男たちの姿はイタリアではおなじみである。イタリアのお役所との付き合いも長く日本出発まで一週間という期限を控え

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イタリアを支配するかで争いが絶えなかったローマに招聘されて

この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない

羊の道1トラットゥーロ出発点の町まず、高速道路A25号線のペッシーナという町で降り、国道を走って110分ほどでアブルッツォ国立公園入口の標識が見えた。しばらく山道を上っていくと、標高一一六七メートルのラクイラ県のペスカセロリという町に着いた。人口11000人の小さな町であるが、案内書には夏はハイキング、冬はスキー客で賑わう観光地とある。ちょうどアブルッツォ国立公園の真ん中に位置しているペスカセロリは、。で述べたあの「羊の移動トランスマンツァ」と呼ばれる「トラットゥーロー羊の道」の、四つのコースのうちの出発点の一つであった。

太古の歴史を受け継ぐ羊の群れは、この町から南のプーリア州カンデーラまで至るのだ。哲学者ベネデット·クローチェの出身地町を歩くと小さな教会の前で足を止めた。その毅然とした長方形のファサードに魅せられたからだ。山岳地帯に住むということは、厳しい自然との対峙を意味する。だが、山の神様から「守られている」という印象も受ける。

  • テレビで正面ファサードは無事でしたと繰り返しレポーターが報告したあの建物
  • イタリア語が多少喋れれば
  • ローマで一番有名なのはサン·クレメンテ教会の地下にあるものだよ

ミラノに帰れる訳でもなしひたすら飛行機を待つしかやる事がない一体

コーヒーそのものを指すことになりますナポリの裏町ほどは危なくないのだろうが、これらの裏町に住む人々がどんな生活をしているのか、さすがに外国人である我々が気軽に伺い知れるところではない。十七世紀の砦がある山の上から眺めた景色は素晴らしいものがある一方、これと裏腹にどこに行っても間口の狭いレストラン、商店は沢山あるのだが、これが一歩入ると奥に延々と広がっており、豪華な内装と相俟って全くイメージが違うことはしばしばある話し。イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ。内と外を使い分ける日本人の社会と似たところがあって、ある人の説によれば、これは京都と同じだとぅことになる。イタリア人と言えば開放的ですぐ誰とでも友達になるといったイメージが日本では一般的だが、北イタリアに関しては余り当てはまらず、どちらかと言えばシャイで人見知りするようである。

ミラノ試合予定の確認これは各チームのウェブサイトで簡単に確認出来ます初対面の人間に本音を明かすようなことはまずないと考えてよいし、特に外国人に対しては、どうも慣れていないためか、結構警戒心が強いというか緊張しているような場合が良くある。丁度日本の田舎へ行った欧米人が好奇の目で見られるようなものであるもう一つ驚いたのは、イタリア人には南北を問わず結構ペシミスティックな考え方をする人が多いと言うことである(ある人に聞いたことだが、イタリア人が何人か集まると必ず出る話題が病気の話題とかで、老若男女を問わぬ現象とか)。これは我々が日本で持っていた「楽天的イメージとは正反対で、様々な外国に支配されていたという歴史経験と無縁ではなかろうと私などは想像しているのだが、仕事などで付き合っているイタリア人は我々から見ると神経質と思う位に色々なことを心配する。もっともその心配が現実になったところで、後はどうにかなるだろうと言う楽観主義が同居する二面性があり、単純な発想の我々日本人がイタリア人を理解しようとすると訳が判らなくなってしまう。親しくなってしまえば(つまり内の世界に入り込んでしまえば)、なかなかに複雑であるこれほど親切な人達も居ないのかもしれないが一九九六年のミス·イタリアにドミニカ共和国出身の黒人女性が選出されて話題になった。

常に日伊混成チームで行うのが習わしになってしまった

ヴェネト州のアドリアという町が有力だが、実際この「アトリ」の方が信憑性があると唱える歴史家も多い。この町はローマ人に征服されるまでラテン語で「アドリアADRIA」あるいは「ハドリアHADR!Aと呼ばれていたからだ。なるほど、イタリア半島の南北のちょうど中心に位置するこの町は、アドリア海からわずか一〇キロメートル内陸に入ったところにある。紀元前に港があった場所町に着いて、私が真っ先に向かったのはアドリア海が一望できる場所であった。この町の近くを流れるヴォマーノーは一直線にアドリア海へと注がれ、その先は砂浜しか見えないが、古代ギリシャや地中海沿岸各地を旅して『地理書』にまとめたストラボン(紀元前六三年から紀元1111年ごろ)によると、そこには大きな港があったという。

イタリアでは誠に異例の所

イタリアのパスタの種類は実に豊富紀元前後の話で、海底にその遺跡が残っているのだ。伝説の霧の向こうに霞んでしまった港は、アトリ専用の港だったというわけである。現在そこにはビネトという新しい町ができている。その遺跡の写真を私はこの次に行く町ビネトで見ることができた。それは後述したい。