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ローマにいる司教たちを召集して会議を開いた

イタリアに脱出し

アブルッツォ国立考古学博物館」の建物は、キエティ市の市長も務めたことのあるフェランテ·フリジェリ男爵が一八三〇年に邸宅として建てた三階建ての館であった。その館の中には、いにしえの世界が息を潜めて横たわっていた。館をぐるりと一周すると、背後に雄大なグラン·サッソ山が見えた。ヴァリニャーニ広場「天正少年使節団を送り出した宣教師」四00年以上前に、この場所で、きっと同じ景色を眺めていたにちがいないひとりの神父のことを考えながら、今、私はキエティの丘に立っている。遠くに見えるなだらかな丘は、空と海の青のなかにとけあっていた。

宣教師ヴァリニャーノその神父とは、故郷キエティを離れ、遠い日本という未知の国に向かう決断を自らに課したアレッサンドロ·ヴァリニャーノその人である青年ヴァリニャーノは、このキエティのどのあたりに住み、どのような心の持ち主だったのか。彼はなぜそれほどまでに日本人に優しかったのか。そして慈悲深かったのか。安土桃山時代にはるばるこのキエティからやってきて、命の危険を知りながら日本にキリスト教を広め、日本の歴史を変えた織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の武将たちに多大な影響を与え、さらに日本人の少年四人に夢をたくして日本で初めての外交使節団「天正少年使節団」をヨーロッパに差し向けた宣教師とは、一体何者だったのか。私は特定の宗教に思い入れがあるわけではないが、強い意志で故郷を立ち去ったヴァリニャーノが心の底にずっと住み続けていた。

  • 実に寂しい町になってしまったよとため息をもらした
  • ローマ帝国の流れを引くビザンチン帝国が北
  • ここちよいものなのでしょう

2階の階にあたる単語にも使う

それでもこれはまずいと思うような料理にはからなる「Rime(詩集)』を出版。その五年後にはソネットや手紙のたぐいを集めた『Lettere-familiariadivers(書簡集)』を刊行した。前者はマントヴァ公、後者はフランス王アンリ三世に捧げられており、ヴェロニカの交際の広さをうかがわせるしかし、華やかな暮らしぶりの反面、世間はまだまだ売春業に対して厳しいものでありつづけた。ヴェロニカ自身、何度か裁判所へ訴えられている。有力な知り合いが多かったので罰こそ受けなかったが、なかには、彼女が教会から聖水を盗み、魔法の薬を作ったというような訴えまであった。

ラクイラは七一四メートル娼婦に対するこの手の訴えは数多く、弱い立場の娼婦たちは見せしめのためにもしばしば収監された。ヴェロニカは、自分たちが置かれたこうした状況を改めようとする。『書簡集』には、娘をヴェロニカと同じ道に進ませようと相談してきた母親に宛てた手紙がある。そこでは、娘を娼婦にするのはやめなさいと、その道の成功者であるヴェロニカ本人が述べている。実際、ヴェロニカ自身六人の子をもうけ、三人を病で失ったが、残る三人はそれぞれの父親たちに後見させて、しかるべき階級の家庭に入れている。

イタリア式庭園の最高傑作として

夜のうちに四千人ものフランス人がシチリア人たちに虐殺され、残ったフランス人は命からがらイタリアを脱出した。その後はスペインのアラゴン王家に支配権が移る。人びとは生き抜いていくのだと実感させられる。いつの世も栄華と衰退を繰り返しながら皇帝派(ドイツ)か、法王派(フランス)かほろ苦いエスプレッソを飲み終わった私はバールを出た。穏やかな午後の日だまりに包まれながら、町の背後に切り立っ岩壁を眺めた。

イタリア人もいるし

後にメディチ家の手に渡ることになったあの山は今も昔も変わらぬ姿で町の動静を見てきたのだろう。そのとき、私は中学生の頃に観たシェイクスピアの映画『ロミオとジュリエット』のワンシーンを思い出した。当時の私はキャピュレット家とモンタギュー家という二つの旧家が、なぜ何百年もお互い憎み合っていたのかさっぱりわからなかった。ただ、ロミオとジュリエットが両家に認められず、引き離されるのが可哀想とだけしか理解できなかった。あやふやな知識の中でジュリエットの悲痛な叫びにただ涙していたのだった。