ローマから約一六○キロメートル延びているこの高速道路の終点に目指すテラモ県

フィレンツェは厳格で写実的な線と空間を特徴とするルネサンス美術を花開かせた

イタリア内、そしてそして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。
今も、壁に門がそのまま埋め込まれているのがよくわかる。さて、イタリア美術の歴史の中に、ずばり”ペルージャの人“という名で呼ばれる画家がいる。ルネサンス時代に活躍したペルジーノ(一四四八s-五二三)がその人であり、本名をピエトロ·ヴァンヌッチというあだ名に反してチッタ·デッラ·ピエーヴェという他の街の出身だった。彼はフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業をつみ(同僚にボッティチェリやレオナルドらが1た)、ペルージャに拠点を置いてほどなく、その名を知られるようになる。一四八〇年頃には法王から召集をかけられて、ローマへと旅している。

お気に入りのイタリアのお土産

ヴェネツィア共和国
システィーナ礼拝堂を飾るために、イタリア全土から高名な画家が集められたのだ。ジェクトで声をかけられたという一点だけでも、当時のペルジーノの成功ぶりがしのばれる。このブロしかし現在はむしろ、ペルジーノの名前は”ラファエッロの先生としてしか一般には知られていない。それも、古めかしい様式を頑固に守る保守的で高齢の師と、進取の気鋭に富んだ天才肌の若き弟子、という対比で語られることが多い。このふたりは典型的な”出藍の誉れの例とみなされているのだ。

 

ローマがゲルマン諸民族に蹂躙されてからは

イタリアではチェルビノと呼ぶと言った名立たる高峰は何れも
イタリアで私たちが訪れることが多い
「こんな映画ができちゃったら、私のアマルフィがさらに混んじゃ?」と心の狭いことを言っている知人がいるのだがかつては「知る人ぞ知る」穴場だったアマルフィ海岸を訪れる日本人観光客の数はここ十年ほどの間に急増しており、知人の心配などもうとっくに現実のものとなっている。かなにしろ、街の公式ホームページやパンフレットに、「アマルフィを見たことがない者は、世界を見ていないに等しい(chinonhavistoAmalfi,nonhavistoilmondo)」というスティウェルによる言葉を不遜にも掲げるほど、アマルフィは自信満々なのだ。彼らの街の輝かしい歴史に。そしてその美しさにアマルフィ誕生の伝説からして、彼らの強烈な自負をよく示している。それは、英雄ヘラクレスの愛をうけた妖精アマフィが、その短い一生を終えたとき、ヘラクレスが彼女の亡骸をこの世で最も美しい場所に埋葬したというものだ。

ミラノからの電話の間い合わせに確実に答えてくれると言うのが、また感激である’来ると専らこの種の買物そして、その地を恋人の名にちなんでアマルフィと名付けたという。アマルフィの成立に関する逸話は他にもいくつかあるが、ややありえそう“な言い伝えに、ローマの執政官マルクスアウレリウス·ルフス(ルフィウス)の娘が、この地をいたく気に入り、居をかまえて街の礎を築いたというものがある。また、もっと後世になって、コンスタンティノーブルへ向かおうとしたローマの人々の乗った船が、嵐にみまわれて流れ着き、この地に根をおろしたとする説もある。美しき妖精の墓所に選ばれたと聞かされても、思わず頷いてしまいそうなほど、この地は美しくかつ”秘められたる場所にある。サレルノからソレント方面へ向かう海岸線沿いの途上にアマルフィはあるが、この道程がなにしろ不便極まりない。

 

ローマ市庁舎などがある丘に作られた広場です


ラクイラの駅は、高台に位置する旧市街の麓にある
その後、ある時を境に呼び名は「ナカタ」にかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ(教皇選出会議)も五度ほどペルージャで開催されている。

イタリア語を使っているから、さぞかしうまくなったと思われては汗顔の至りで、半分以上は英語で済んでしまうので、どうも中途半端になっていけない
ペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。たとえばエトルリア時代の前11世紀頃に建てられたマルツィア門は、一五四0年にパオリーナ城塞が造られた際にその一部として取り込まれた。