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ラクイラでサン·ベルナルディーノ大聖堂が建設される

イタリアの呼び名まで違ってくるので

町が誇るマルチーニ劇場もその一つである。アブ»ッツオ考古学国立博物館へマルチーノ通りという、日本でいえば銀座通りのようなおしゃれな通りをしばらく歩くとトレント·トリステ広場」にぶつかった。その広場から延びる「一一月四日通り」をまっすく行くと、噴水のある円形の庭園に辿り着いた。どうやらここにお目当てのアブルッツォ国立考古学博物館」があるらしい。そこに、あの「戦士カペストラーノ」の本物が飾られているのだキョロキョロあたりを見渡すと木々で覆われた高台があり、客が見えた。

「あの森のなかだ」階段から下りてくる数人の観光階段を一五段ほど上るとそこには品の良い三階建ての重厚なクリーム色の館があった。博物館というよりは貴族の邸宅といった趣だった。博物館の前庭に玉砂利が敷かれており、その上をザクザクと音を立てながら入口に向かっていった。胸の鼓動が高鳴るのは、ロマンをかき立てる謎の遺跡がまもなく見られるからだった。「戦士カペストラーノ」の彫刻博物館のガラスのドアをゆっくり開けた。

  • 15世紀にはスペインが直接支配
  • ミラノのタクシーは安全かと聞かれることがよくあった
  • 平民だけで開かれる集会と

ローマを目指したのです

イタリア語を使うようになってまずびっくりしたのはタリアコッツオ「ヨーロッパ史を変えた大事件」私は今、アブルッツォ州ラクイラ県の町、タリアコッツォに立っている。思えばこの州を訪れる決断をするまでに、三0年という長い月日が流れたが、やはりこの時間が私には必要だったのだろう。ローマから最初に足を踏み入れたこのラクイラ県の町、タリアコッツォから私の旅は始まった。読者はイタリアの歴史のなかで、「タリアコッツォの戦い」という言葉を聞いたことがあるだろうか。この戦いはイタリアというよりも、世界史のなかでドイツとフランスに一大転機をもたらした大事件だった。

土曜日に前倒しで行われたりその歴史を動かした舞台をさっそく訪れてみよう。イタリア語で旧市街をチェントロストリコ(歴史地区)と呼ぶが、小さな町ではたいてい城壁の外にある駐車場に車を止めなければならない。中世の時代、車が通れる道幅など考えていたわけではないからだ。車一台がやっと通れるか通れないかというような細い道ばかりである門をくぐってゆっくり城壁内に入ると、まるで中世にタイムスリップしたような錯覚に襲われた。大きな広場の中央にはオベリスクが立っている。

スリや置き引き

の、アビニョン捕囚から最初にイタリアに帰ってきた法王、マルティヌス5世。1420年以降、教皇はまたイタリアバチカンに戻ってくるのでした。そして1450年を聖年とし、それ以来多くの巡礼者がイタリアを訪れるのでした。その勢いに乗って、ローマのヴァチカン宮殿、サンピエトロ大聖堂の改築などが始まるのでした。この建設ラッシュにかり出されたのが、そう、ダヴィンチと並ぶルネッサンスの巨匠、ミケランジェロとラッファエロなのでした。

イタリアと言えばまずスパゲッティを思い出すのもやむを得ないが

ナポリ王国と呼ぶようになったラッファエロにはこのサンピエトロ大聖堂建設責任者として。そしてミケランジェロにはシスティーナ礼拝堂の建築を。この大事業に関して必ずお話しなくてはいけないことがあります。そう、この一世一代の大事業を成し遂げるためには、莫大な資金が必要だったのです。この資金調達のために行われたのが、そう、免罪符発布、「皆のもの天国へあがりたいのであるならば、自らの罪を払拭するためにはこの免罪符を買わなくてはいけない」このあまりに不合理な教皇の行動に待ったをかけたのが、そう、今のドイツのドレスデンで修道士をしていたルター。