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ヨーロッパ各地からたくさんの客が訪れるリゾート地だ

ローマ人の戦いだったことをあらためて学びなおした

さきほど一緒に中に入ったイギリス人カップルは、人数を数えていた。このフレスコ画の前に立ち、長老たちの回文とフレスコ画に込められた謎私はゆっくりと出口に向かった。教会内の柔らかい光に目が慣れていたので外の光が眩しかった。思い切り深呼吸をしてから、もう一度ファサードを眺めた。そこには、次のように端正でみごとな文字列が逆さまに輝いていた。この辺り特有の丘を越えて近道をしたこと

女性の死因の第二位を産褥死が占めていた

「SATORAREPOTENETOPERAROTAS左右どちらから読んでも、また上下どちから読んでも、また逆さまに読んでもAREPOTENETOPERAROTAS」と読めるのだ。「SATOR私がじっとその壁を見ていると、門番の老人が近づいてきて「この回文と同じ文句がイタリアには幾つもあるんだよ。シエナの大聖堂やポンペイの近くのへルクラネウムの遺跡とかにね。イギリスのサイレンセスターやシリアのドゥラ·エウロポス遺跡にもね……」老人は、この回文には謎が多く、研究されてはいるが決定的な意味はまだわかっていないのだと、まるでガイドのように教えてくれた。この言葉の意味は、「アレポという農民が馬を曳いて農地を耕し仕事をする」となる。


薬局には良くお世話になったが
薬局には良くお世話になったが

日本人にとって中華料理とならんで最も親しみやすい料理であるのは間違いない

キリストが誕生した場所はこの修道院のハイライトはこの回廊だった。中庭はバラが咲き誇り、パームの木が端正に植えられ、回廊の天井を見上げるとテラコッタの世界であった。ここでのんびり青空を見ながらベンチで本を読みたかったが、まだまだ先がある旅なので、次の町、ランチャーノに向かうことにした。アブルッツォ州の海岸沿いの町を巡ってきたが、海は潮風と磯の香りがするものと思っていたのに、アドリア海はただただ澄み切った水の匂いしかしなかった。そして、無色であるはずの水が、限りなく多彩であった。イタリアで盗難に遭う日本人は数多くアドリア海は人間の五感に訴える場であった。チャーノ「トロイの子孫が住む町」アドリア海から内陸に10分ほど走った場所にランチャーノの町がある。町に着いたのがお昼時であったこともあり、旧市街は静まりかえっていた。「この静けさはアブルッツォらしい」と思った。観光地化されず、町の人びとのペースで動いているからだ。

イタリア経済に過度な負担となり

その後ローマ人(ラテン人)たちが街を受け継いでさらに発展させた街のシンボルとなっている”ギリシャ劇場“も、現在私たちが目にしている姿は、実際にはローマ人たちがほとんど全面的に手を加えたあとの状態である。ローマ時代には、ギリシャ悲喜劇のかわりに、コロッセオよろしく血で血をあらう剣闘士同士の殺戮ショーが好まれた。そのため、演出用の”せり出し“を付けるべく、オルケストラ(平土間)中央に地ド溝が掘られている。さつりくこのギリシャ劇場は、観客席の最大直径で100メートルを越えるほどの大きさがあり、シラクーザにあるものに次いでシチリア第二の規模を誇っている。そして保存状態の良さでは、おそらく他の追随を許さない。


フィレンツェです
フィレンツェです

そのあとを息子のロレンツォが継いだ

やはりローマ時代に加えられた舞台正面壁(スカエナエ·フロンス)もかなり状態良く残っており、往時の威容を想像させる。半円形の観客席に腰をおろすと、舞台のはるか向こうの左手には青い海がひろがり、右手にはエトナ26端正な姿が目に入る。富士山と大きさも形もよく似たエトナ山は、古くから噴火記録が残されている活火山であり、ほとんど常に噴煙をあげている。ここ数十年の間だけでも何度か噴火を繰り返しており、かつて劇場に座っていた観客たちも、遠くエトナ山の山肌を真っ赤な溶岩が流れ落ちていく様を見ていたに違いない。そして、その上に広がる真っ青な空を、白い雲がかなりの速さで泳いでいたことだろう。ペルージャの画壇を支配していた