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ピサーノが建築した夜通し語り合っていたときに

ローマ時代には

彼の並外れたバイタリティはどこから来たのか、実はアブルッツォに来た最大の理由はその源泉を知りたいがためであった。私はアブルッツォ国立考古学博物館」で見たあの「戦士カペストラーノ」とヴァリニャーを重ねてみた。二五00年以上前の山岳部族の強い精神は悠久の時を経ても変わらず、ヴァリニャーノに受け継がれていたのだろう。ローマ帝国崩壊後のキエティ西ローマ帝国崩壊後、東ゴート族が侵入すると良くも悪くも町は見放されてしまう。幸いにビザンチン帝国が東ゴート族を滅ぼすと、キエティに「テアーテ公国」が建設される。ローマでも指折りのデパートリナシェンテがあります

住民登録をチェックして送って来るらしい

キエティがデアーテ」と呼ばれていた安定した時代である再び歴史の流れが一気に変わるのは、五世紀から九世紀にかけて酉ヨーロッパを支配したゲルマン系のフランク王国の侵入であった。キエティは八01年にフランク王国によって破壊されてしまう。外国の軍勢に踏み荒らされて経済的にも政治的にも活力を失い、長い沈滞期に入っていく。時が流れ、一二世紀になるとあたり一帯の領土はラクイラの章で登場したあのフェデリコ11世の「神聖ローマ帝国」になる。ノルマン人も住むようになるとキエティは経済的にも文化的にも落ち着き始めた。


ローマはなんと
ローマはなんと

イタリア語会話にも余り出ていないし

イタリアで最も美しい町の一つに選ばれたと知ったのは恋人たちの家は、お互い激しく対立していたことにもなっている。それは両家が、当時半島を二分していた抗争の真っ只中にいたからだ。イタリアの各都市はそれぞれ、ローマ法王を支持する(ゲルフ派)か、それともドイツを拠点とする神聖ローマ皇帝の傘下に加わる(ギベン派)かの二者択一を迫られた。どこの街でも、その中は両派に分かれ、果てしない主導権争いが続いていた。見に来たれよ、モンテッキ家とカッペッレッティ家の人々を、(中略)その思慮なき人々は、(ダンテ·アリギエーリ、『神曲』煉獄篇、第六歌CVI-CV111、筆者訳)すでに悲しみの中にいた一三一二年から一三一八年頃まで、抗争のあおりで亡命中だったダンテがヴェローナに滞在している。ローマ教皇と神聖ダンテがそのとき潛き残した両家こそ、恋する二人のそれぞれの家のモデルとなったものだ。ただし当初は悲恋物語とは関係なく、ヴェローナのギベリン派モンテッキ家がサン·ボニファチオ家に打倒され、ゲルフ派でクレモナを地盤とするカッペッレッティ家がペラヴィチーノ家に敗れた史実を詠ったまでだ。しかし恋の話はともかくも、有名な伝説の設定は、れっきとした事実に基づいていたわけである。しかし、ここからシェイクスピアの有名な戯曲になるまでの道のりは、とても長く複雑だシエナに戻ったガノッツァは、首を斬られた恋人を発見し、その亡骸の上で悲しみのあまり死んでしまった。チョ·サレルニターノ、r11Novellino[小説集]』、第三三話MariottoeGanozza」、筆者訳)(マズツおそらくは各地に残る悲恋の伝承をもとに、サレルニターノが一四七六年に発表した物語マリオットとガでは、舞台こそシエナとなってはいるものの、その後の大筋はほぼできあがっている。

イタリアの歴史は芸術を中心に進めましょう

大手銀行や事務所や店舗が重い錠で閉鎖されていた。その扉には蜘蛛の巣が張っていた。皇帝vs法王の権力争いの始まりこの町は前述したフェデリコ二世(一一九四-一二五○)というイタリア史上最も「国際人」といわれた神聖ローマ帝国の皇帝が築き上げた新しい理想都市であった。そのコンセプトにはフランスやローマ法王に対抗するための都市計画が念入りに盛り込まれている。皇帝フェデリコ11世と法王との戦いは、相続問題を含む領土の奪い合いであった。


元老院とよく協調して政治にあたり
元老院とよく協調して政治にあたり

ローマ人が造った1万人も座れる巨大野外円形劇場の跡地が一九九三年に発掘され

ドイツの神聖ローマ帝国とローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは、この皇帝フェデリコ二世から始まるのである。それは同時にイタリア全土に「皇帝派」と「法王派」という二つの派閥を作ることになる。そして、イタリアは神聖ローマ帝国、スペインのアラゴン王家、そしてフランスのアンジュー家の激しい争いに巻き込まれ、翻弄されていくのだった。聖地エルサレムとフェデリコ二世シチリアで育ったといわれ、英才教育によって高い教養を身につけたフェデリコ二世が造り出した、斬新なラクイラの都市構造には、さらに話の続きがある。この構造が、あの「聖地エルサレム」と同じ配置をしているというのだ。イタリアならではであるまず最初は目指す通りの名前を地図で探すのに一苦労する