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イタリアを支配するかで争いが絶えなかったローマに招聘されて

この日ようやく出会ったのだっあの白く輝く大理石のギリシャ彫刻ではない

羊の道1トラットゥーロ出発点の町まず、高速道路A25号線のペッシーナという町で降り、国道を走って110分ほどでアブルッツォ国立公園入口の標識が見えた。しばらく山道を上っていくと、標高一一六七メートルのラクイラ県のペスカセロリという町に着いた。人口11000人の小さな町であるが、案内書には夏はハイキング、冬はスキー客で賑わう観光地とある。ちょうどアブルッツォ国立公園の真ん中に位置しているペスカセロリは、。で述べたあの「羊の移動トランスマンツァ」と呼ばれる「トラットゥーロー羊の道」の、四つのコースのうちの出発点の一つであった。

太古の歴史を受け継ぐ羊の群れは、この町から南のプーリア州カンデーラまで至るのだ。哲学者ベネデット·クローチェの出身地町を歩くと小さな教会の前で足を止めた。その毅然とした長方形のファサードに魅せられたからだ。山岳地帯に住むということは、厳しい自然との対峙を意味する。だが、山の神様から「守られている」という印象も受ける。

  • テレビで正面ファサードは無事でしたと繰り返しレポーターが報告したあの建物
  • イタリア語が多少喋れれば
  • ローマで一番有名なのはサン·クレメンテ教会の地下にあるものだよ

ミラノに帰れる訳でもなしひたすら飛行機を待つしかやる事がない一体

コーヒーそのものを指すことになりますナポリの裏町ほどは危なくないのだろうが、これらの裏町に住む人々がどんな生活をしているのか、さすがに外国人である我々が気軽に伺い知れるところではない。十七世紀の砦がある山の上から眺めた景色は素晴らしいものがある一方、これと裏腹にどこに行っても間口の狭いレストラン、商店は沢山あるのだが、これが一歩入ると奥に延々と広がっており、豪華な内装と相俟って全くイメージが違うことはしばしばある話し。イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ。内と外を使い分ける日本人の社会と似たところがあって、ある人の説によれば、これは京都と同じだとぅことになる。イタリア人と言えば開放的ですぐ誰とでも友達になるといったイメージが日本では一般的だが、北イタリアに関しては余り当てはまらず、どちらかと言えばシャイで人見知りするようである。

ミラノ試合予定の確認これは各チームのウェブサイトで簡単に確認出来ます初対面の人間に本音を明かすようなことはまずないと考えてよいし、特に外国人に対しては、どうも慣れていないためか、結構警戒心が強いというか緊張しているような場合が良くある。丁度日本の田舎へ行った欧米人が好奇の目で見られるようなものであるもう一つ驚いたのは、イタリア人には南北を問わず結構ペシミスティックな考え方をする人が多いと言うことである(ある人に聞いたことだが、イタリア人が何人か集まると必ず出る話題が病気の話題とかで、老若男女を問わぬ現象とか)。これは我々が日本で持っていた「楽天的イメージとは正反対で、様々な外国に支配されていたという歴史経験と無縁ではなかろうと私などは想像しているのだが、仕事などで付き合っているイタリア人は我々から見ると神経質と思う位に色々なことを心配する。もっともその心配が現実になったところで、後はどうにかなるだろうと言う楽観主義が同居する二面性があり、単純な発想の我々日本人がイタリア人を理解しようとすると訳が判らなくなってしまう。親しくなってしまえば(つまり内の世界に入り込んでしまえば)、なかなかに複雑であるこれほど親切な人達も居ないのかもしれないが一九九六年のミス·イタリアにドミニカ共和国出身の黒人女性が選出されて話題になった。

常に日伊混成チームで行うのが習わしになってしまった

ヴェネト州のアドリアという町が有力だが、実際この「アトリ」の方が信憑性があると唱える歴史家も多い。この町はローマ人に征服されるまでラテン語で「アドリアADRIA」あるいは「ハドリアHADR!Aと呼ばれていたからだ。なるほど、イタリア半島の南北のちょうど中心に位置するこの町は、アドリア海からわずか一〇キロメートル内陸に入ったところにある。紀元前に港があった場所町に着いて、私が真っ先に向かったのはアドリア海が一望できる場所であった。この町の近くを流れるヴォマーノーは一直線にアドリア海へと注がれ、その先は砂浜しか見えないが、古代ギリシャや地中海沿岸各地を旅して『地理書』にまとめたストラボン(紀元前六三年から紀元1111年ごろ)によると、そこには大きな港があったという。

イタリアでは誠に異例の所

イタリアのパスタの種類は実に豊富紀元前後の話で、海底にその遺跡が残っているのだ。伝説の霧の向こうに霞んでしまった港は、アトリ専用の港だったというわけである。現在そこにはビネトという新しい町ができている。その遺跡の写真を私はこの次に行く町ビネトで見ることができた。それは後述したい。